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源有仁

平安時代後期の公卿。輔仁親王の次男。従一位・左大臣 ウィキペディアから

源有仁
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源 有仁(みなもと の ありひと)は、平安時代後期の公卿後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子。官位従一位左大臣花園左大臣とも称された。皇族時代は有仁王と称する。

概要 凡例源有仁, 時代 ...

経歴

永久3年(1115年元服。始め白河院の養子となり皇嗣と目されたが、元永2年(1119年)5月に白河院の孫である鳥羽天皇に顕仁親王(後の崇徳天皇)が生まれたことから、同年8月源朝臣姓を与えられて臣籍降下し、直ちに従三位権右中将に叙任され公卿となる。無位からいきなり三位に叙せられるのは極めて異例であり、嵯峨源氏源定以来約290年ぶりのことであった。また、この昇進については白河院による有仁の父輔仁親王への配慮であったことが窺われる[注釈 1]。同年、堀河鳥羽両天皇の乳母藤原光子の希望により、藤原公実と光子の間の娘(源有仁室)と結婚した[2]。なお、同年11月には父・輔仁親王が没しているが、その直前に有仁は権中納言に任ぜられている。

早くも翌保安元年(1120年)には上﨟の中納言7名を越えて権大納言に任ぜられると、保安2年(1121年)従二位・右近衛大将、保安3年(1122年正二位内大臣に叙任されるなど急速に昇進を果たす。鳥羽院政期に入っても、天承元年(1131年従一位右大臣に昇進し、保延2年(1136年)34歳で左大臣に至り、関白藤原忠通に次ぐ太政官の次席にまで昇った。また、花園離宮を賜って居住したことから花園左大臣と呼ばれた。

晩年は病気により朝廷への出仕が困難な状況であったといい[3]久安3年(1147年)2月3日に出家して成覚と号するが、同月13日に薨去享年45。

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人物

詩歌・管絃(琵琶)・に秀で、勅撰歌人として『金葉和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集和歌作品21首が採録されている[4]。詠風は、詞花集頃の典型で伝統的に題意の世界を深め、用語の技巧に冴えを見せている。また、儀式故実を集大成し、儀式書『春玉秘抄』『秋玉秘抄』を著している。

日記『花園左府記』は80巻にも及ぶものとされる。その逸文は『御産部類記』に天治元年(1124年)3月、5月、6月、天治2年(1125年)4月、5月、6月条が、『園太暦』に大治3年(1128年)正月、永治2年(1142年)4月、康治3年(1144年)4月条が伝わる。

藤原頼長作 源有仁伝

源有仁伝(『台記』巻七、久安3年2月3日条)

右大臣源有仁公者、延久聖主之孫、輔仁親王之子、中宮大夫師忠卿之外孫、白川法皇迎以為子、今法皇未有継嗣、有意于欲立以為嗣、然間今法皇生上皇、然後賜姓源、即日叙従三位、任右近衞権中将、諸臣不叙四位五位直叙三位之例、未甞有者也、法皇傷時無英雄之臣、為此異政耳、大臣為人、容貌壮麗、而進退有度、長絲竹之道、琵琶及笙、習入木之樣、亦巧手和歌、詳習我朝礼儀、少失礼、訪之上古之大臣、何耻之有矣、当世之臣、共比肩者纔、并二四不同人、唯怨少文而已、十年以来患疾、不能夙夜事君、識者以為、大臣之疾、朝廷之所可患、今遂捨身、朝廷既如無人、官家之失良臣、豈不悲乎、通者彗星荐見、若見此凶祥欤、天之不幸于日域、嗚呼哀哉、

官歴

公卿補任』による。

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系図

 
 
 
71 後三条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
72 白河天皇
 
実仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輔仁親王
 
篤子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
73 堀河天皇
 
覚行法親王
 
覚法法親王
 
媞子内親王
(郁芳門院)
 
源有仁
(有仁王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
74 鳥羽天皇
 
最雲法親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
75 崇徳天皇
 
77 後白河天皇
 
76 近衛天皇
 
 
 
 
 
 
 
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系譜

脚注

参考文献

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