トップQs
タイムライン
チャット
視点
片山良庵
ウィキペディアから
Remove ads
片山 良庵(かたやま りょうあん)は、江戸時代前期の軍学者、医師。 越前福井藩士、のち越前松岡藩士。諱は三盛。一説には直竒(寄)ともいう[1]。秋扇と号した。
生涯
要約
視点
慶長6年(1601年)、京都に生まれる[2]。幼少より儒学者・藤原惺窩の下で学ぶ[3]。林羅山(道春)は同門でこのころの友人という[4]。
12、3歳にして早くも経史子集[注釈 1]に通じていたと言われる[3]。しかし、100余日にわたる病[注釈 2]により学問を中断[5]。回復した後、同学の者に遅れをとったことを嘆き、これを機に兵法の修学に転じた[5]。兵法では、甲州流軍学に最も通じ、8家から奥義を得るほどで名声が高く、多くの入門者がいたという[3]。甲州流ないし北条流の軍学を修める前には、鵜飼某、宇佐宮より出た春慶という者の軍学や、小笠原流、宇野流の軍学も修めたとされる[6]。また、謙信流(越後流)の軍書を授けられたこともあるという[7]。はじめ姓は赤堀といい、片山を名乗ったのは軍学に達してからだという[8][注釈 3]。
元和2年(1616年)、信濃松代藩主・松平忠昌に禄300石をもって軍師として招かれ、その家臣となる[9]。また、医者としても仕えた[10]。寛永元年(1624年)、藩主忠昌の転封に伴い、越前福井に移る[11][注釈 4]。忠昌が江戸に入るとこれに従った[12]。
江戸にいた寛永15年(1638年)、隅田川河畔にあって[注釈 5]『古戦場夜話』を著わす[13]。江戸においても良庵の下で学ぶ者は多く、知名の士との交流もあったという[11]。特に儒学者の林道春、軍学者の北条氏長との親交が厚かった[11]。将軍の侍講であった道春及び旗本であった氏長の推挙によって、幕府より登用の話があったものの、故あって固辞したという[11]。そのため、忠昌より剃髪および医服の着用を命じられた[12][注釈 6]。このとき名を良庵と改め、「宿志達せんと欲するも強て行われず、秋来て扇の筐底に蔵するに等し」として、秋扇と号した[12]。
正保2年(1645年)、藩主忠昌が没すると、その次男であるが正室の子であった松平光通が福井藩を相続し、庶兄の松平昌勝が5万石の松岡藩に分封されることとなった[14]。その際、福井藩のうちから磯野岩見(1,700石)、平岡右近(1,450石)以下45名が昌勝付きとなり、良庵も主命により昌勝付きの松岡藩士となった[15]。
松岡藩分封の際、幕府より新規の築城は許されず、館(陣屋)が造営されることとなった[16]。慶安元年(1648年)、館は勝山街道沿いの吉田郡芝原庄に置くことと定められ、同地は松岡と改称された[16]。館の構築には、陣構えや築城法に通じる良庵が総督となり、これに当たった[17]。 館は、九頭竜川南岸の河岸段丘の上にあり、館を囲んで武家屋敷を配置。東側を表として東西南の3方に土居と水堀を巡らし、東側の武家地の端に接して鉤状に折れ曲った勝山街道を通す構造であった[16]。寄せ手の通り抜けや見通しを困難にするための曲り角(鍵の手)は意図的に何度も設けられ、曲り角の数から「十二曲り」「松岡十二曲り」と呼ばれる[18]。屋敷割りは慶安2年(1649年)9月に、承応2年(1653年)からは館の普請が行われた[19]。これが松岡館である。藩主昌勝は、承応3年(1654年)6月に入部[20]。街道に沿って町屋が形成され、町は陣屋町として発展した[21]。
良庵は、松岡藩に移った後も、本藩である福井藩の藩主・松平光通や、その弟で越前吉江藩主の松平昌親[注釈 7]に召され、兵法を講じたという[12]。
寛文8年(1668年)、68歳にて没した[17]。法号は清澄院良庵秋月居士[17]。福井の本妙寺に葬られたが、後年、墓は泰遠寺に移った[22]。
Remove ads
軍学思想
良庵の軍学思想の一端については、加賀藩の儒学者・青地礼幹の随筆集『可観小説』[注釈 8]に、次のような話が残されている。
当時の軍学においては、「大星の大事」[注釈 9]なることが兵書にて流布され、事々しく秘伝とする流派もあったとされる。しかし、良庵の門弟・鈴木宗隋によれば、良庵は、この大星なるものについては戦攻の益にならぬとして重視しなかったという[23]。
家系
父祖
父や祖父は医者であったとされる[13]。父の正盛は京都の人で、通仙院と称し、医をもって朝廷に仕え、法橋の位に叙せられたという[3]。
子孫
良庵の死後、その家督は嫡男の栄庵正貞が継いだ[25]。この系統では、栄庵に次ぐ三代目の玄悦重之が武頭、横目、奉行、物頭末番外、四代目の與三右衛門が御大番、表小姓、御裏役、郡奉行、五代目の與三右衛門が大御番を務めた[25]。四代目・與三右衛門については、藩主・松平宗矩より郡奉行に抜擢され、あるとき音物を持参する者がありこれを受け取ったがその訴訟を極めて公平に判断したことから、音物の悪弊が止んだという逸話が残されている[26]。
良庵の次男・瀬左衛門森利は、良庵死後その知行のうち100石の分知を受けて[注釈 11]別家を立て、作事奉行、郡奉行、寺社郡兼役、旗奉行を務めた[27]。この系統は、森利の子・彌五右衛門武續がその跡を継いだ[25][注釈 12]。武續の弟・儀右衛門重長は、父・森利隠居の際、50石を分知され、森利の母方・高屋の姓に改めたが後に片山に復した[27]。
師弟
師
弟子
- 明石貞弘
- 片山包道
- 通称・強右衛門。良庵の一族で、北条氏長が編んだ「師鑑(前ノ師鑑)」を良庵が書き改めた「師鑑(後ノ師鑑)」の伝えを受けたという[8]。
- 鈴木宗随
- 二木守良
- 真柄安勝
- 三岡幸庵
Remove ads
著作
- 『武鑑師法』
- 『古戦場夜話』
- 『古今兵歌集』
- 『奇正或問』
- 『奇正六十四問答』[48]
- 『舟軍巻』
- 『高名穿鑿帳』
- 『一騎武者受用師鑑考訂抄』
- 『一騎武者受用巻末書備考』
- 所蔵:福井市立図書館 越国文庫コレクションで天保7年写本のデジタル画像が閲覧可能。
- 『一騎受用抄』
- 『師鑑抄聞書』
- 所蔵:金沢市立玉川図書館近世史料館加越能文庫(史料番号 特16.81-123)[52]
- 概要:内容は戦場における武士の心得について。良庵が二木守良に二木がその弟子に伝えたところの聞き書き。
Remove ads
注釈
- 一方で、『越前人物志 上』466頁には「父を片山正盛と云」と、父の代から片山姓であったと読める記載がある。
- 当時の名乗りは昌明。
- 小説とは、ノベルではなく国史・正史に対する稗史の意。
- 大星は日神の尊称。日神信仰が軍配に結びついたもので、小幡景憲が甲州流大星伝としてまとめ、甲州流、北条流、山鹿流をはじめ軍学の各流派において秘伝とされていた。北条氏長も、天照大神の日徳の奉戴が必勝の途であるなどとし、その兵法極意を「大星伝」としていた(『日本武学史』200-203頁)。
- 『続片聾記 中』579頁には、良庵に関する記載と、その子栄庵に関する記載の間に、「忠昌公御代左馬助三百石」との記載がある。
- この学統の系譜は次のとおり。片山良庵 ― 二木守良 ― 二木守全 ― 二木守晨 ― 楢林備英 ― 西尾親庸 ― 吉川敬明(『富山藩武術ニ関スル記録』による)。
- この学統の系譜は次のとおり。片山良庵 ― 真柄安勝 ― 小倉実重 ― 秋原正族 ― 木村正敬 ― 九里成照 ― 名児耶根麻 ― 秋原政勝 ― 秋原政甫 ― 九里成誉 ― 高野常道(『日本兵法史』424頁〔長岡市個人蔵『伝統之巻』による〕)。
Remove ads
出典
参考文献
関連資料
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads