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牧村三枝子
日本の歌手 ウィキペディアから
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牧村 三枝子(まきむら みえこ、本名:千葉 美恵子、1953年12月21日 - )は、日本の演歌歌手である。所属事務所はサンミュージックプロダクション。愛称は「ミーコ」。
略歴
- 北海道美唄市で炭鉱労働者の家庭で5人兄弟の末っ子として出生。中学校卒業後に上京、釣り具店に就職する[1]傍ら、 1972年に入学したサンミュージック・タレントスクール[2]を経て『少女は大人になりました』でRCAレコードよりデビュー。
- 1976年1月に放送開始のテレビドラマ「大都会-闘いの日々-」にレギュラー出演。3月、ポリドールへ移籍し同作挿入歌『赤堤灯の女』を発売。
- 1978年12月、所属レーベルで先輩歌手に当たる渡哲也のシングルリリース曲『みちづれ』[3]を、牧村の強い希望によりカバー・シングルとして発売。その後同曲はオリコン週間シングルチャートで1979年4月30日付から1980年1月21日付まで38週連続で20位以内にチャートインするロングヒットとなった。
- その後も『夫婦きどり』(1979年~1980年)、『あなたの妻と呼ばれたい』(1980年)、『友禅流し』(1989年~1990年)などのヒット曲がある。
- 「NHK紅白歌合戦」には1981年から1984年まで、4年連続で4回出場を果たした。1983年には両親のために静岡市内に自宅購入している。
- 1984年6月にトーラスレコードへ、2000年3月にはバップへ移籍する。
- 1997年、父の死が引き金となって酒量が増えたことなどから、2002年頃に肝硬変と食道静脈瘤を発病。約2年間の闘病生活を経て、2004年に歌手活動を再開している[4]。
- 乳がん闘病を極秘にしていて10年前には両胸を全摘出したこと、2022年に終の棲家(ついのすみか)を求め自宅マンション売却や大量の着物などの衣装や荷物なども処分して、東京から兄や甥などの親族が住んでいる静岡市に移住したことを2023年5月15日の『徹子の部屋』出演時に明かす[5][6]。
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エピソード
- ポリドールへの移籍が決まった際に、所属していたRCAレコード側から「移籍のときに挨拶に来たのはミーコ(牧村の愛称)が初めて」として喜ばれ、牧村のために祝杯が上げられたと、サンミュージック創業者であった相澤秀禎が後に話している[7]。
- 実父の死をきっかけに、アルコール依存症やストレスからくる重度の肝硬変などに倒れた際には、一時体重が35kgまで激減、肺に水が3リットル溜まる深刻な状況にあった。緊急入院して間もなく担当医から「余命5年」と宣告された際、「あと5年しか生きられないというよりも、こんな状態で5年も生き続けなければならないのか」と絶望に襲われたことを牧村本人が番組[8]などで語っていた。
- 闘病中の牧村に対して、大親友の小林幸子の呼び掛けで北島三郎・山本譲二・細川たかしら演歌歌手仲間による激励メッセージを収録したカセットテープが届けられたことを機に、「病気の克服と歌手としての復帰に対する意欲を取り戻した」と述懐している。病気闘病中は当初極秘だったがスクープ報道されて直ぐにバレてしまったと牧村も後年に語っている。水前寺清子も牧村のデビュー当時から長年にわたって可愛がっており姉妹のようにとても仲が良い。
- 未だ独身を貫いていることに関しては、インタビューで牧村自ら「私が結婚したい男性は、同じレコード会社の先輩でお世話になり『みちづれ』を私に下さった渡さんか、亡くなった石原裕次郎さんの二人だけ。私が21歳の頃にそのお二人と出逢ってからは、他の男性に一切目が行かなくなった」とコメントしていた[9]。
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ディスコグラフィ
シングル
デュエット・シングル
アルバム
- LP
- CD
ベスト・アルバム
CD-BOX
タイアップ曲
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出演
テレビドラマ
NHK紅白歌合戦出場歴
- 出演順は「(出演順)/(出場者数)」を表す。
参考文献
- 「オリコン年鑑」1980年版(発行:オリジナル・コンフィデンス、1980年6月)
- 各年度「レコードマンスリー」(発行:日本レコード振興(株))
脚注
関連項目
外部リンク
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