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稲垣潤一

日本の歌手 (1953-) ウィキペディアから

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稲垣 潤一(いながき じゅんいち、1953年昭和28年〉7月9日[1] - )は、日本歌手

概要 稲垣 潤一, 生誕 ...

宮城県仙台市出身[2]。所属レーベルはユニバーサルミュージック内のUSM JAPAN。

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来歴・人物

要約
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父親は東京都板橋区、母親は兵庫県神戸市出身である[3]。父が終戦後、満洲から妻の疎開先・宮城県加美郡宮崎村(現在の加美町)に引き揚げた。その後仙台市に移り住んだ後、潤一が誕生した[3]仙台市立東華中学校を経て、宮城県工業高等学校を卒業した。

父が音楽好きで、ビートルズエルトン・ジョンを好んで聴いており、60歳を過ぎて自らギターを習って曲も作るという環境で育ったため、小さい頃から音楽が好きだった[4]。最初はエレキギターのサウンドにしびれてギターに惹かれ、小学生の頃はホウキで真似したり木を削ってギターを作するがしっくりこず、中学生になり8ビートを教わってドラムを叩いたらすんなりできたことにより[4]中学でドラム・ヴォーカルを主に担当[2]、中学生時代からバンドを始め[2]、高校で初めてバンドを作りながら本格的なバンド活動を始め、仙台で「フェイセス」を結成した。その後、仙台のライブハウス横須賀立川米軍キャンプ等で演奏を続けるうち[2]、その歌声の良さに仙台の店でスカウトされる。

デビュー前にCMソングを歌い、「スーパーポップボーカル」というキャッチコピーで1982年1月21日に東芝EMIよりシングル「雨のリグレット」でデビューした。3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」で自身初のTOP10入りを果たす。1986年から1989年にかけてオリジナル・アルバムが4作連続1位を獲得した。1992年に発売した「クリスマスキャロルの頃には」は170万枚を売上、クリスマスソングの定番として親しまれている。

上記のように元々はドラマーであるため、ライブやテレビ番組でもドラムを演奏しながら歌うことが時折ある。ドラムはTAMAとエンドースメント契約を結んでいる。

自ら作詞・作曲を手掛けた作品もあるが、大半の楽曲は他の作詞・作曲家提供による。シンガー・ソングライター全盛の時代に、歌手に徹して自作曲は歌わないという姿勢を貫いた[2]。その後もシングルの表題曲は自作していない。しかし1984年には、神田正輝のシングル「マティーニの後で」のカップリング曲の作曲を担当した。

「April」(1986年、三洋電機)、「思い出のビーチクラブ」(1987年、カナダドライジンジャーエール)、「セブンティ・カラーズ・ガール」(1989年初春のカネボウ化粧品)、などのCMソングも数多く、テレビドラマ主題歌や番組のエンディングテーマ等も多数手掛けている。1992年と2011年にはタイアップ曲だけを収録したアルバムを発表している。

デビュー当初は、東芝EMIと契約した。後にファンハウス(現在のソニー・ミュージックレーベルズアリオラジャパン)に移籍した。ファンハウス傘下前のBMGビクター・BMGジャパン傘下のair Records、テイチクエンタテインメント傘下のContinental Label・Imperial Recordsに所属した。2007年、ユニバーサルミュージック・USM JAPANに移籍した。なおair Records 時代[注 1]を除き、Imperial Records時代までの楽曲の原盤権はフジパシフィック音楽出版(現在のフジパシフィックミュージック)が管理している。2008年にUSM JAPAN・2009年にユニバーサル ストラテジック マーケティング ジャパンからファンハウス以前のアルバムが再発された際には、フジパシフィック音楽出版のライセンシーによりリイシューされている。

映画『アイ・ラヴ・ユー』の音楽監修も務め、主題歌・挿入歌を担当した(挿入歌は、同じくテイチク所属のSALAHも担当)。

私生活では、最初の妻とは死別している。2009年(平成21年)一般人女性と再婚した。同年3月14日に内輪のみでパーティーを行い、挙式も済ませている。

2006年(平成18年)には声優・長谷川杏里のデビューシングル「フラグメンツ・ブルー」の作曲を担当した。

稲垣の地元、仙台市を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルスのファンクラブ名誉会員(会員No.11)であり、2007年(平成19年)3月31日のフルキャストスタジアム開幕戦(日本ハム戦)で国歌独唱を行った。

2013年には2013年のSUPER GTのGT300クラスに参戦するGREEN TEC RACING TEAMの監督に就任した。自身も公式ライセンスを取得しており、かつてはトヨタ・アルテッツァのワンメイクレース「ネッツカップ・アルテッツァワンメイクシリーズ」等に参戦するなど、モータースポーツへの造詣が深い[5]

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ディスコグラフィ

要約
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シングル

CD化されているのは、「オーシャン・ブルー」以降の作品。

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配信リリース作品

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オリジナル・アルバム

1 -15 は、2002年1月23日にボーナス・トラック付でテイチクエンタテインメントから、1 - 15・18は2008年1月23日にUSM JAPAN、2009年3月11日に、ユニバーサル ストラテジック マーケティング ジャパンからリイシューされている。(USM JAPANとユニバーサル ストラテジック マーケティング ジャパンでのリイシュー規格品番は同一となっている)1 - 4は、1980年代後半から90年代後半までにかけ、上記と別途にそれぞれのリリース元よりリイシューされている。

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ベスト・アルバム

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コンピレーション・アルバム

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その他企画アルバム

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映像作品

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参加作品

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著書

写真集

  • 三浦憲治 写真『稲垣潤一"No strings"』CBS・ソニー出版、1984年11月21日。

出演

テレビ

NHK紅白歌合戦出場歴

さらに見る 年度/放送回, 回 ...
注意点
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。

ラジオ出演

映画出演

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スタッフ・キャスト

映画音楽監修

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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