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稲垣長茂
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稲垣 長茂(いながき ながしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国伊勢崎藩初代藩主。鳥羽藩稲垣家初代。幼名は藤助、通称は平右衛門[1][2]。
生涯

三河稲垣氏は清和源氏の流れをくみ、文明年間に伊勢国から三河国宝飯郡牛久保に移住し牛久保城主・牧野氏の家臣となったと伝わる[2]。
天文8年(1539年)、三河国牛窪で稲垣重宗の長男として生まれる[1]。長茂は牧野成定のもとで、戦国大名今川氏に属して戦功を挙げた[1][2]。
永禄8年(1558年)、牧野氏が徳川家康に恭順すると長茂も徳川氏の家人となった[1][2][3]。永禄9年(1559年)に牧野成定が死去するとその跡を継いだ幼少の牧野康成をたすけるため康成に付属させられた[2][3]。天正18年(1590年)の小田原城の戦いでは大いに戦功を挙げた[1][2]。戦場では長茂は鬚を伸ばし朱具足を身に付けていたので「長茂の朱具足」と称せられたという[1]。
同年8月、家康の関東入国に伴い、牧野康成は大胡藩2万石に封じられ、長茂は下野国足利(寺岡村)、上野国山田(桐原村)、同勢多(新川村)3郡より3千石を与えられた[1][2][3]。大胡では豊川稲荷妙厳寺9世・天室伊尭を開山として長興寺を開基した[2]。
慶長5年(1600年)の会津征伐時には、牧野康成の大胡城を守備した[1][2]。
慶長6年(1601年)、上野国佐位郡を加増されて1万石となり、伊勢崎藩を立藩して諸侯に列した[1][2][3]。伊勢崎では天増寺の開基となった[1]。
慶長17年(1612年)10月22日、74歳で死去した[1][2][3]。家督は長男の重綱が継いだ[1]。墓所は群馬県伊勢崎市の天増寺[1][2][3]。
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系譜
父母
- 父・稲垣重宗
子女
出典
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