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羽下修三

日本の彫刻家 ウィキペディアから

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羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年明治24年〉6月1日 - 1975年昭和50年〉5月17日)は、日本彫刻家雅号大化(たいか)、蜀獨楽(しょっこま)。

略歴

要約
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新潟県中蒲原郡川内村大字川内(現 五泉市川内)の醸造業・羽下徳八の次男として出生[1]

1909年明治42年)3月に新潟中学校を卒業、第一高等学校を受験するが不合格、代用教員として新潟県の小学校に勤務、1910年(明治43年)12月に一年志願兵として村松町陸軍歩兵第30連隊に入隊[2][3]1915年大正4年)に結婚[4]

1916年(大正5年)4月に東京美術学校彫刻木彫部に入学[注 1][注 2]高村光雲白井雨山大村西崖に学び、卒業して研究生になってからは北村西望朝倉文夫関野聖雲にも学んだ[2][7][8][9][10][11]

1921年(大正10年)3月に東京美術学校彫刻科木彫部を卒業[注 3]、同年10月の第3回帝展で『光明へ』が初入選[2][7][9][10][13][14][15][16][17][18]1926年(大正15年)7月の第3回白日会展で『菩薩』により最高賞である白日賞を受賞[19]

1927年昭和2年)2月に東京美術学校彫刻科木彫部講師に就任[2][3][13][20][21]

1929年(昭和4年)10月の第10回帝展で『春を萠ゆる』が特選[2][3][7][9][13][14][15][16][22]1930年(昭和5年)10月の第11回帝展で『爛漫』が特選、1933年(昭和8年)5月に帝国美術院から永久無鑑査に推薦された[2][3][13][14][16][22]

1936年(昭和11年)6月に東京美術学校彫刻科木彫部助教授に就任[2][3][13][14][16][20][23]

1944年(昭和19年)5月に文部省により東京美術学校の改革が行われ、北村西望、朝倉文夫、関野聖雲らと共に辞職、1945年(昭和20年)4月に新潟県中蒲原郡五泉町大字三本木(現 五泉市三本木)の妻の実家に疎開[2][8][10][13][20][24][25]

1952年(昭和27年)6月に新潟大学教育学部非常勤講師に就任[注 4]

新潟県文化祭美術展(1959年〈昭和34年〉から新潟県美術展覧会〈県展〉)の審査員や新潟県文化財調査審議委員などを務め、後進の指導育成や郷土文化の振興発展に尽力した[2][8][9][14][15][16][20][27][28][29][30][31][32]

1972年(昭和47年)5月に新潟県東蒲原郡三川村(現 阿賀町)の平等寺の住職から制作を依頼された『薬師如来像』を1975年(昭和50年)5月16日に完成させたが、翌5月17日午前7時に五泉市三本木の自宅で脳溢血のため死去[2][33][34][注 5]83歳没。葬儀・告別式は5月20日に五泉市錦町の興泉寺で執り行われた。戒名は彫心院修観證三居士[36]

1975年(昭和50年)11月に羽下修三のアトリエが羽下の墓所がある五泉市川内の永谷寺の境内に移築されて羽下修三記念館(羽下大化記念館)として一般に公開された[16][37][38][39]

1977年(昭和52年)10月に五泉市粟島の粟島公園に羽下修三顕彰碑が建立された。顕彰碑には「梅散るや蹴合ひし鶏の別れゆく」という羽下修三の俳句が刻まれている[38][40][41]

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栄典

親族

作品

卒業制作

代表作

人物像

動物像

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脚注

参考文献

関連文献

外部リンク

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