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蔵内次郎作
日本の実業家、政治家 ウィキペディアから
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蔵内 次郎作(藏内、くらうち じろさく、1847年2月23日(弘化4年1月9日 [1]) - 1923年(大正12年)7月18日[2])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。

生涯
豊前国築城郡深野村(現福岡県築上郡築上町[3]大字上深野)で、代々庄屋を務めた素封家[3]当主・蔵内新六の三男として生まれる[1]。庄屋を務めたが[2]、奔放な性格や米相場などで家産を傾け、1883年、縁者の久良知政市を頼って田川郡弓削田村(現田川市)に移住した[3]。
甥で養子の蔵内保房と共に零細な炭鉱経営から始めたが、1885年、峰地炭鉱を開坑した[3]。その後、足立炭鉱を開坑するなど経営を拡大し、伊藤伝右衛門と並び称される鉱主となり[3]、蔵内鉱業取締役、大日本養殖取締役、九州採炭取締役、若松炭礦取締役、日本格羅謨取締役などを務めた[4]。
1908年5月、第10回衆議院議員総選挙で福岡県郡部から出馬し当選[2]。以後、第14回総選挙まで連続4回の当選を果たし、衆議院議員を連続五期務めた[2]。議場で痛烈な野次を飛ばしたことで知られた[3]。在任中に病のため東京の自宅で死去した[2][4]。
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本邸
本邸は、旧所有者の寄附により築上町所有となり、2002年(平成14)に敷地内の建造物が12件[5]、国の登録有形文化財に登録、2017年(平成29年)2月9日付で敷地内庭園が、国指定名勝「旧藏内氏庭園」に指定された。
敷地面積は、7.135㎡、延床面積が1.250㎡あり、2013年(平成23)4月から「旧蔵内邸」として有料で一般公開されている。
年譜
- 1847年 誕生
- 1883年 親戚を頼って、田川郡弓削田村(現福岡県田川市)に赴く。
- 1885年 弓削田村に峰地炭鉱を開坑して、炭鉱経営者としてのスタートをきる。
- 1893年 企救郡(福岡年北九州市小倉北区)に足立炭鉱を開坑。
- 1902年 添田坑区84万坪の未開発地域の開坑に着手。
- 1908年 衆議院議員に初当選。
- 1913年 川崎村(福岡県田川郡川崎町)、大任村(福岡県田川郡大任町)の大峰炭鉱を譲渡。
- 1916年 峰地炭鉱と大峰炭鉱を合併し、蔵内鉱業が発足、保房が社長に就任。
- 1921年 鎮西公園を現在の田川市に寄贈。
- 1923年 死去
親族
蔵内家は江戸時代には深野村(築上町上深野)の庄屋で蔵内(クラチ)と言ったが、維新前後に反政府活動に加わった者が出たことから、クラウチと読みを変えた[6]。同族に久良知(クラチ)家がある[6]。
- 父・蔵内新六[6]
- 甥・養子 蔵内保房 (1863-1921) - 兄・栄蔵の長男、田川銀行頭取、福岡県多額納税者[1]。14歳で父が亡くなり、次郎作の養子となった。豊津藩の洋学校「大橋洋学校」で学び、田能村竹田の収集家としても知られた。岳父の久良知政市は久良知寅次郎の兄で、兄弟ともに田川郡内の炭鉱経営者。[6]
- 孫・蔵内次郎兵衛(1892-1967) ‐ 蔵内鉱業社長、福岡県多額納税者。豊津中学中退後、家業を継いだ。娘婿に日比谷吉雄(日比谷平左衛門の孫)、多田貞敏(多田勇雄の二男)。[6][7]
- 孫・蔵内正次(1893-1951) ‐ 蔵内鉱業常務、福岡県多額納税者。豊津中学を経て早稲田大学に進学したが、中退して家業を手伝った。妻は朝鮮総督府技師・宇都宮寛の娘・かよ。かよの弟の岳父に平野耕輔。長男・蔵内正臣の岳父に玉屋 (百貨店)グループ創業家・田中丸善八。[6][7]
- 長男・蔵内修治(1918-1993) ‐ 政治家。自身の弁によると次郎作78歳のときの子になる。[8]
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関連項目
- 1918年米騒動#炭鉱への飛び火 ‐ 蔵内家が経営する峰地二坑での騒動が最も規模の大きなものだった[9]
脚注
参考文献
外部リンク
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