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藤原師氏
平安時代前期から中期の公卿・歌人。藤原忠平の四男 ウィキペディアから
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藤原 師氏(ふじわら の もろうじ、延喜13年〈913年〉 - 天禄元年〈970年〉)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。関白太政大臣・藤原忠平の四男。邸宅名の桃園第に因んで桃園大納言、あるいは枇杷大納言と称される。
経歴
延長6年(928年)正月に16歳で叙爵し、翌延長7年(929年)侍従に任じられる。承平4年(934年)従五位上・左近衛少将に叙任されると、天慶2年(939年)従四位下、天慶4年(941年)蔵人頭兼左近衛中将と官位を進め、天慶7年(944年)参議に任ぜられて32歳で公卿に列する。
しかし、翌天慶8年(945年)弟・師尹が26歳で参議に任ぜられると、天暦2年(948年)には師尹が師氏に先んじて権中納言に任官され、以降は常に師氏の方が官職が下位となった。その後、天暦9年(955年)従三位・権中納言、天徳4年(960年)中納言、康保元年(964年)正三位と昇進するが、康保4年(967年)には、兄・師輔の嫡男・伊尹が新帝(冷泉天皇)の外伯父として権大納言に抜擢されたことで、甥の後塵をも拝することになった。
安和2年(969年)権大納言、天禄元年(970年)正月には大納言に至るが、同年7月14日薨去。享年58。最終官位は大納言正三位皇太子傅。『宇治拾遺物語』には、近衛大将任官の饗宴の2日前に歿したとあるが、『公卿補任』等の史料には、近衛大将任官の記載はない。兄弟の実頼・師輔・師尹が大臣まで栄進したのに対し、師氏の極官は大納言に止まる。醍醐天皇の皇女である靖子内親王を降嫁されており、内親王の降嫁は兄・師輔に次いで史上2人目であったが昇進には繋がらず、師氏は官位昇進については不遇であった事が窺える。
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人物
『空也誄』に空也と二世の契りがあった事、『空也誄』『古事談』等に、師氏薨去に際して、空也が閻魔大王に送る牒文を書いたと伝えている。また、『蜻蛉日記』には、師氏が宇治に別荘を有していたものの、歿後荒廃してしまったと記す。
和歌に優れ、『和歌色葉集』に名誉歌仙と記載され、『後撰和歌集』『新古今和歌集』等の勅撰和歌集に11首入集。また自身で編んだ私家集『海人手古良(あまのてこら)集(師氏集)』がある。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
参考文献
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