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藤原経定
平安時代後期の公卿。正三位・権中納言。藤原経実の長男。藤原北家大炊御門家庶流堀川流の祖。子に藤原定雅(子に経衡(子に経保-治部卿局、資定(従五位下))、経覚(僧都)、能全 ウィキペディアから
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藤原 経定(ふじわら の つねさだ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家大炊御門家、大納言・藤原経実の子。官位は正三位・権中納言。
家嫡となれなかった経定
藤原経実の長男であり懿子の兄であったが、生母の実家の差から昇進が遅く、家は藤原公実の娘である藤原公子を母とする弟・経宗が継いだ。また、保元の乱の直前に薨去したことになる。
経歴
- 天仁2年(1109年)1月6日、叙爵。
- 永久4年(1116年)1月30日、加賀権介に任ぜられる。
- 保安3年(1122年)8月27日、昇殿を許される。同年9月8日、右兵衛佐に任ぜられ、同年12月22日には右少将に任ぜられる。
- 保安4年(1123年)1月22日、加賀権介を兼ね、同月28日には新帝の昇殿を許される。同年11月6日、備中介に改めて任ぜられ、同月17日、従五位上に昇叙。
- 大治元年(1126年)1月5日、正五位下に昇叙。
- 大治3年(1128年)1月5日、従四位下に昇叙。同月24日、改めて右少将に任ぜられ、4月7日には左少将に遷る。
- 大治4年(1129年)1月24日、肥後介を兼ねる。
- 長承2年(1133年)1月5日、従四位上に昇叙。
- 長承3年(1134年)2月22日、備中権介を兼ね、同年3月7日には右中将に任ぜられ中宮権亮を兼ねる。
- 保延4年(1138年)11月17日、蔵人頭に任ぜられる。
- 保延5年(1139年)12月、妹・懿子が従一位左大臣源有仁の養子として雅仁親王の添臥となった。
- 保延6年(1140年)3月27日、美作権守を兼ねる。
- 保延7年(1141年)12月2日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。
- 永治2年(1142年)1月23日、讃岐権守を兼ねる。
- 康治2年(1143年)、懿子と雅仁親王との間に守仁親王が誕生した。
- 久安3年(1147年)1月5日、従三位に叙される。
- 久安5年(1149年)8月28日、伊予権守を兼ねる。同年22日、正三位に昇叙。
- 久安6年(1150年)10月20日、権中納言に任ぜられる。
- 久寿3年(1156年)1月28日[2]、薨去[3]。
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系譜
脚注
出典
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