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藤原鷹取

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藤原 鷹取(ふじわら の たかとり)は、奈良時代貴族藤原北家左大臣藤原魚名の子。官位正四位下左京大夫

概要 凡例藤原 鷹取, 時代 ...

経歴

光仁朝初頭の宝亀2年(771年従五位下に昇叙し、翌宝亀3年(772年中務少輔に任ぜられる。同年9月に政情調査のために覆損使として南海道に派遣される[1]左京亮を経て、宝亀6年(775年遣唐副使に任ぜられる。しかし、大使の佐伯今毛人が病と称し渡海せず、鷹取は大伴益立と共に副使を更迭されてしまい、結局宝亀8年(777年)に小野石根が持節副使として渡唐した。なお、宝亀9年(778年)にはこの遣唐使の帰国に伴い来日した唐使の慰問を行っている[2]

宝亀8年(777年)に右大臣藤原良継薨去し、大納言である父・魚名朝廷の中心的存在となる。鷹取は魚名の威光を背景に、宝亀9年(778年)従五位上、宝亀10年(779年正五位上、宝亀11年(780年従四位下と光仁朝末にかけて急速に昇進すると共に、左少弁・左中弁と弁官を歴任した。

天応元年(781年)4月に桓武天皇即位に伴い従四位上、11月には大嘗会への由機須機国司としての奉仕の功労として正四位下と桓武朝でも昇進を続け、造宮卿・左京大夫・左兵衛督侍従中宮大夫などを務める。しかし、天応2年(782年)父・魚名が左大臣を罷免されると兄弟と共に連座し、鷹取は石見介左遷される。翌延暦2年(783年)7月に魚名が薨ずる直前に入京を許され、延暦3年(784年)4月に再び左京大夫に任ぜられるが、同年5月10日卒去。最終官位は左京大夫正四位下。

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官歴

続日本紀』による。

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系譜

注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

出典

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