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覚如
鎌倉時代末期~南北朝時代の浄土真宗の僧。本願寺第三世。覚惠の長男。母は周防権守中原某の娘。『報恩講私記』『本願寺聖人伝絵』など撰述。勅撰集『新千載和歌集』に1首入集 ウィキペディアから
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覚如(かくにょ、覺如[1])は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第3世宗主・真宗大谷派第3代門首・真宗木辺派第3代法主。大谷本願寺住職。
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親鸞の末娘である覚信尼の子、覚恵の長男。母は周防権守中原某の娘[5]。親鸞の曾孫にあたる。長男は存覚、次男は従覚。孫は第4世善如。
「大谷廟堂」の寺院化(本願寺の成立)に尽力し、本願寺を中心とする教団の基礎となった。本願寺の実質的な開祖[6]。
『報恩講私記』、『本願寺聖人親鸞伝絵』(『御伝鈔』・『親鸞伝絵』)、『執持鈔』[7]、『口伝鈔』[8] 、『改邪鈔』[9]など多数撰述し、法然の正統な後継者としての親鸞と浄土真宗内における本願寺教団の優位性を主張した。
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生涯
要約
視点
年齢は、数え年。日付は、文献との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とし、南北朝時代の元号は、北朝(京都)で表記する。
誕生
- 文永7年12月28日(1271年[2] 2月16日[4] )、京都に生まれる。幼名は、「光仙」。
- 文永9年(1272年)、母と死別する。
- 文永11年(1274年)、5歳。この頃より仏門の道を志すようになる。
- 建治3年(1277年)頃、隣房の慈信房澄海(ちょうかい)の元、内外の聖典の修学に励み、天台宗「初心集」を伝受される。
- 弘安5年(1282年)(弘安7年〈1284年〉とも)、延暦寺の宰相法印宗澄(しゅうとう)に入門。天台の教えを受ける。
- 弘安6年(1283年)、興福寺一乗院の信昭に入室し、法相の教えを受ける。信昭没後は、弟子の覚昭に付いて学ぶ。
- この間に、八宗兼学の自性房了然について三論教を学ぶ。
得度
自覚
唯善との争い
- 正安4年(1302年)、覚恵と唯善の間に起こった留守職就任問題が勃発する(唯善事件)。
- 徳治元年(1306年)、覚恵は唯善に大谷廟堂の鍵を強奪され、占拠される。覚如・覚恵は、三条朱雀の覚如の妻の実家に避難する。
- 徳治2年(1307年)、覚恵、三条朱雀にて入滅する。
- 延慶2年(1309年)7月、青蓮院により大谷廟堂留守職は、覚如に継承される事が裁定される。敗れた唯善は、大谷廟堂を徹底的に破壊し、御影像(親鸞の木像)と遺骨の一部を奪い、鎌倉へ逃亡する。(唯善事件、決着。)
- 延慶3年(1310年)、東国への勧進と東国門徒へ自身の留守職を承認してもらうために赴く。半年にわたる懇願の末、承認され正式に留守職を継承する。
- 延慶4年/応長元年(1311年)、親鸞五十回忌に当たり、御影像と影堂を再建する。
本願寺成立へ
義絶
三代伝持の血脈
- 元弘元年/元徳3年(1331年)、『口伝抄』を撰述し、「三代伝持の血脈(けちみゃく)」を表明し、法灯継承を主張する。(法脈…法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如、血統…親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)自らを本願寺三世と位置づける。(親鸞…開祖〈宗祖〉、如信…本願寺二世)
- 正慶元年(1332年)、如信の三十三回忌の勤修の為、陸奥国の大網(現、福島県白川郡古殿町)に赴く。同時に有力な東国門徒20人余りに、正統な宗義の相伝者・法灯の継承者である事を認めさせ署名させる。
- 建武3年 (1336年)、足利尊氏による戦乱を避け、存覚の居住する近江瓜生津に疎開する。戦火の影響で「本願寺」全焼する。『本願寺上人伝絵』(初稿本)消失する。
- 建武4年(1337年)、帰洛し西山久遠寺に居住する。『本願鈔』『改邪鈔』を撰述する。
- 建武5年/暦応元年(1338年)、近江瓜生津の愚咄の仲裁により、存覚の義絶を赦免し、別当職を譲る。
- 暦応3年(1340年)、『願々鈔』を撰述する。
再び、義絶
往生
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著書
- 覚如撰述
- 関連書籍
- 『慕帰絵詞』10巻 - 従覚著作
- 『最須敬重絵詞』(さいしゅきょうじゅうえし)7巻…乗専著作
脚注
参考文献
関連文献
外部リンク
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