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読売カップ
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読売カップ(よみうりカップ)とは、1949年から1973年まで中央競馬で行われたアングロアラブ系の重賞競走である。当初は団体戦のアラブ東西対抗[1]として、後には「アラブダービー[2]」の通称で人気を博した。
概要
要約
視点

1949年、仁川の阪神競馬場開設を記念し、国営競馬初のアラブ系重賞競走「アラブ東西対抗(正式名称:読売楯争奪アラブ東西対抗)」として創設[1][3][注 1]。プロ野球の東西対抗戦に着想を得て、世界でも稀な団体戦として企画された。関東と関西からそれぞれ5頭、計10頭で競走を行い、着順に応じた得点を合計して東軍・西軍の勝敗を決めた。当初のルールは以下の通り[1][5]。
- 関東・関西にそれぞれ出場馬選考委員会を設置し、アラブ系競走馬5頭(補欠1頭)を選出
- 出走条件はアラブ系4〜7歳(現3〜6歳)
- 関東馬5頭、関西馬5頭、計10頭で競走を行う
- 得点は1着から順に10点、5点[注 2]、4点、3点、2点、6着以下0点
- 各軍の得点を合計して勝敗を決定する
協賛には読売新聞社が名乗りをあげた。当時は朝日新聞社による朝日杯3歳ステークスを筆頭に、多くの新聞社が冠競走の創設と提供を希望していた[1]。優勝賞品として提供された青銅製の盾(読売楯)には勝者(年次・東西および5頭の馬名)が刻まれ、毎回の持ち回りとされた。他に総理大臣賞カップ、1着賞金30万円・団体賞20万円が用意された[1][5]。また、遠征馬には特別参加賞として3万円が授与されることとなった[1]。
第1回は関東の本命・ヒエンが回避し、関西の本命であるタマツバキが優勝、団体戦としても西軍が勝利した。売上額8,345,200円は同年の菊花賞(売上額811万円、勝ち馬トサミドリ)を超えており、本競走の人気が窺える[5]。翌1950年の春季には第2回を東京競馬場で開催(東軍勝利)。以降春秋2回、春は関東、秋は関西での開催が定着した。
1952年春(第6回)より「読売カップ(アラブ東西対抗)」と改称し、春季開催を中山競馬場に変更[3][6]。さらに出走馬をアラブ系4歳(現3歳)に変更し、アングロアラブの日本ダービーとでもいうべき競走に変化した[1]。1954年春(第10回)からは団体戦方式(東西対抗)を廃し「読売カップ」と改められた[3]。
古馬混合時代にはタマツバキやニユーバラツケー、4歳馬限定時代にはセイユウ、シユンエイ、ゲンタロウ、オーギを始めとするアラブの名馬が輩出した。春の読売カップは「アラブダービー[2]」、秋も「アラブの菊花賞[7]」と通称され、クラシック競走に例えられた。
しかし、中央競馬のアラブ系競走馬のレースが縮小される傾向から、1973年の第49回を最後として廃止となり、その後春はセイユウ記念、秋はシュンエイ記念にそれぞれ代替されて開催されたが、さらなるアラブ系競走馬の減少を理由としていずれも廃止されている。また、読売新聞社はこのあとスプリンターズステークス(中山)、マイラーズカップ(阪神→京都)に優勝トロフィーを提供しているが、スプリンターズステークスはその後撤退しており、現在はマイラーズカップのみとなっている。
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歴史
- 1949年 - アラブ系4歳以上7歳以下の重賞競走「読売楯争奪アラブ東西対抗」を創設、秋季に阪神競馬場の芝2000mで施行。
- 1950年
- 1952年
- 「読売カップ(アラブ東西対抗)」に改称。
- 出走条件をアラブ系4歳に変更。
- 春季開催場所を中山競馬場に変更。
- 1954年
- 「読売カップ」に改称。
- 団体戦廃止。
- 1973年 - 第49回読売カップ(秋)をもって廃止。春季はセイユウ記念、秋季はシュンエイ記念に役割は引き継がれた。
歴代優勝馬
要約
視点
東西対抗の団体戦という特殊な性格のため、団体戦実施期とそれ以降で分けて記載する。
馬齢は現行表記、当時の年齢表記は表の数値に1を加えた値になる。
アラブ東西対抗
アラブ東西対抗(春)
アラブ東西対抗(秋)
- 施行競馬場:阪神競馬場
- 競走名:第1、3、5回「読売楯争奪アラブ東西対抗競走」、第7、9回「読売カップ競走(アラブ東西対抗)」
- 出走条件:第7、9回は3歳のみ
読売カップ
読売カップ(春)
読売カップ(秋)
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脚注
参考文献
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