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蛯沢誠治

日本の騎手 (1951-2003) ウィキペディアから

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蛯沢 誠治(えびさわ せいじ、1951年6月5日 - 2003年10月31日)は、千葉県出身(青森県上北郡東北町生まれ)の元騎手・元調教助手

概要 蛯沢誠治, 基本情報 ...

経歴

要約
視点

12歳の時にかつて騎手を志していた次兄の薦めで、当時調教師を目指していた中山杉浦照厩舎の成宮明光調教助手に弟子入りし、千葉に移住。その後は成宮の下で騎乗技術を習得し、馬事公苑騎手養成短期課程を経て、1970年に同厩舎からデビュー。

1年目の1970年は3月1日東京第1競走4歳未勝利・カネツクバ(13頭中9着)で初騎乗を果たし、同15日の東京第8競走5歳以上500万下・ヨネリュウで初勝利を挙げる[2]8月29日の中山では初の1日2勝[3]翌30日の中山第4競走3歳新馬・カネヒムロで初の2日連続勝利[3]、カネヒムロでは10月17日の東京第7競走おみなえし賞で初の特別勝ち[4]も挙げ、初年度から2桁勝利の11勝[5]をマーク。

2年目の1971年には初の20勝台となる22勝、3年目の1972年には30勝、1973年には43勝と40勝台に到達するなど、年を重ねて勝ち星を増やしていく[5]

1972年には福島産のアングロアラブヒシマツタカで「アラブのダービー[6]」や「アラブダービー[7]」といわれた読売カップ(春)を制し[8]重賞初勝利[9]を挙げたほか、アラブ王冠春秋、「アラブの菊花賞[10]」といわれた読売カップ(秋)タマツバキ記念(秋)は全て3着で、暮れのアラブ大賞典(秋)を制覇[8]。タクマオーでは函館記念オンワードガイの3着に入り、福島大賞典ではナスノカオリに勝利し、有馬記念では14頭中12番人気でイシノヒカルの5着と健闘[11]

1973年にはカネイコマで条件戦を連勝してクラシックに挑み、皐月賞NHK杯で共にハイセイコーの2着[12]。タクマオーでは福島大賞典を連覇し、毎日王冠も制して重賞を連勝[11]。後に「アラブの魔女」と呼ばれたイナリトウザイでは3戦目から騎乗し、サラブレッド相手に連勝を7まで伸ばした[13]

1974年にはスルガスンプジョウ日本短波賞セントライト記念クモハタ記念[14]1975年にはヨネミノルクイーンカップ[15]ホワイトフォンテンで最後の日本最長距離ステークス[16]を制したが、1975年に運転免許不正取得事件に連座していたことが発覚し書類送検となる。結果は起訴猶予で逮捕には至らなかったものの、6月5日付で当面の間騎乗停止(暫定処分)、9月18日付で正式処分が下され、騎手免許剥奪となった。

その後は1978年に免許再取得が認められるまでの間、青森の明神ファームで育成騎乗者として過ごした。

再取得後は1978年3月11日の中山第4競走4歳未勝利・グラーネホンジン(14頭中4着)で復帰すると、翌12日には復帰後の重賞初騎乗となった中山記念カネミカサで制し、復帰後初勝利を重賞で飾った[17]

カネミカサではその後も京王杯スプリングハンデキャップシービークインの2着、安田記念ニッポーキングの3着、新潟記念オールカマー3着、目黒記念(秋)・クモハタ記念2着、有馬記念では15頭中12番人気でサクラショウリグリーングラスに先着する4着[18]と健闘[19]1979年には中山記念を連覇し、3連勝でアルゼンチン共和国杯も制す[19]1980年にはアメリカジョッキークラブカップで同じ馬主のカネミノブに勝利し[20]、中山記念では3連覇を阻止されるも2着と3年連続連対を果たし、中京で行われた宝塚記念ではテルテンリュウの3着に入った[19]

1980年の弥生賞ではビゼンセイリュウでハワイアンイメージモンテプリンスサクラシンゲキに先着する2着[21]に入り、1981年七夕賞では11頭中10番人気でただ1頭だけインを通る奇襲に出て[22]フジマドンナジュウジアロー・ハワイアンイメージに勝った[23]

1982年にはスティールアサを3連勝での新潟3歳ステークス制覇[24]に導いたほか、不良馬場の京王杯オータムハンデキャップを紅一点のジュウジアローで制した[25]

1984年の弥生賞では4戦無敗のビゼンニシキ主戦騎手を務めていた岡部幸雄が、3戦無敗のシンボリルドルフを選択したため、蛯沢が同レースから主戦を務める[26]。レースはゲートで立ち上がる不利な発走となり、後方の外に位置を取る[27]。4コーナーで抜け出すシンボリルドルフを背後から追い上げ、直線では馬場の内側に斜行し、ビゼンニシキの右前肢がシンボリルドルフの左後肢に接触する事故もあったが、前を行くシンボリルドルフが失速することなく、1馬身4分の3馬身遅れた2着に敗れた[27]。その後のトライアルではスプリングステークスではサクラトウコウ相手に意表をつく逃げ切り勝ちを収め、NHK杯は楽勝する[28] [29]。皐月賞ではシンボリルドルフを負かしに行き[30]、直線でルドルフと激しくぶつかり合うほどの叩き合い[31]を演じ、最後は1馬身1/4及ばず2着に終わったが、3着オンワードカメルンには4馬身付けたことで株は再び上がった[30]東京優駿ではルドルフとの一騎打ちムードに拍車がかかったものの[31]、距離の壁に当たって14着に沈む[30]

1985年からはルドルフ・ビゼンニシキと同期であるスズパレードの主戦を務め[32]、同年に59kgを背負ったダービー卿チャレンジトロフィーでは道中内々を回り、4コーナー大外から進出して差し切りを目論んだサクラユタカオーを出し抜いて2馬身差勝利[33]1986年には60kgを克服してダービー卿チャレンジトロフィーを連覇し、1987年には中山記念を制す[32]。1987年の宝塚記念では逃げるシンブラウンを追いかけるニシノライデンニッポーテイオーらをマークし[34]、4コーナーでインコースから先頭に立とうとするニシノライデンに外から馬体を併せるニッポーテイオーの争いになろうとしていたところ[34]、あっという間に先頭に踊り出て2馬身差を付け[34]、人馬共にGI初制覇[35]となった。最後の重賞制覇は1988年新潟で行われたオールカマーで、1年3ヶ月の休養明けをランニングフリーマックスビューティなどの強敵を抑え、新潟芝2200mを2分12秒3のレコードで勝った[36]

1986年にはシーナンレディーでステイヤーズステークスを制したが[37]、同馬は2025年現在も同レースを制した唯一の牝馬[38]である。3000m以上の重賞を牝馬が制するのも、1988年のダイヤモンドステークス・ダイナブリーズを最後に出ておらず、2頭だけとなっている[39]

1987年の牝馬クラシックでは栗田博憲厩舎のタレンティドガールで活躍し[40]、ぶっつけ本番で臨んだ優駿牝馬では断然人気のマックスビューティには及ばなかったものの、2着クリロータリーとはハナ差の3着[41]。マックスビューティが三冠に王手をかけていたエリザベス女王杯では栗田と「馬体を接しないように出し抜けをくらわそう」と相談した結果、スト200mで完全に抜け出したマックスビューティにゴール寸前襲い掛かって最後は悠々と交わす[42]。栗田に初のGI勝ち[42]をもたらすが、蛯沢にとっては最後のGI制覇[43]となった。

1987年の第1回根岸ステークスでは大井から転厩してきたシラオキ系の牝馬グレースシラオキに騎乗し、3コーナーから外目を回してワンテンポ遅らせる形でスパートすると、直線では激しい追い比べを制した[44]

1988年には共同通信杯4歳ステークス・ミュゲロワイヤルでリアルシャダイ産駒に重賞初勝利をもたらしたほか[45]、NHK杯では初芝のマイネルグラウベン[46]メジロアルダンサッカーボーイに勝利し[47]、自己最多の73勝[5]をマーク。

1997年にはシャコーテスコでセントライト記念を制すが、管理する野平祐二調教師、父ホスピタリテイと共に最後の重賞勝利となった[48] [49] [50]

1998年には8勝と初めて1桁[5]に終わり、1999年10月10日福島第10競走二本松特別・セイカラスプーチンで最後の勝利[50]を挙げ、2000年3月25日の中山第1競走4歳未出走・ゴートゥザウイン(16頭中3着)を最後に現役を引退[51]

引退後は小島太厩舎の調教助手に転身したが、2003年10月31日、食道癌により52歳で死去。

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成績

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主な騎乗馬

(括弧内は蛯沢騎乗での優勝重賞競走)

その他

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参考文献

  • 『別冊宝島 競馬騎手読本』宝島社 1997年 ISBN 4796692908 p.18-20「蛯沢誠治 現代競馬に迷う」
  • 木村幸治『騎手物語』(洋泉社、1998年)
  • 『中央競馬年鑑・昭和50年版』(日本中央競馬会、1976年)

脚注

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