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朝日杯フューチュリティステークス
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朝日杯フューチュリティステークス(あさひはいフューチュリティステークス)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。
競走名の「フューチュリティ(Futurity)」は、英語で「未来」「将来」を意味する[3]。
寄贈賞を提供する朝日新聞社は、大阪など全国4ヶ所に発行本社を置く新聞社[3]。創業の礎大阪朝日新聞以来の伝統を持つ朝日新聞大阪本社が所管する。
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概要
要約
視点
欧米では1786年のニューマーケット競馬場(イギリス)を皮切りに2歳馬の競走が行われていた[4] が、日本では第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)終結後の1946年(昭和21年)秋の東京競馬場で初めて3歳(現2歳)馬による競走が行われた[4]。
その後も各地の競馬場で3歳(現2歳)馬の競走が行われるようになり、1949年には関東地区の3歳(現2歳)馬チャンピオン決定戦として「朝日杯3歳ステークス(あさひはいさんさいステークス)」が中山競馬場で創設された[4][5]。以来、2013年まで長らく中山競馬場で行われてきたが、2014年より施行場を阪神競馬場に変更した[4][5]。競走名は2001年より馬齢表記を国際基準へ改めたことに伴い、現名称に変更された[4][5]。
創設当初の施行距離は芝1100mで、1959年より芝1200mへの変更を経て、1962年以降は芝1600mで定着している[4][5]。
競走条件は1991年に牡馬・牝馬のチャンピオン決定戦を明確にすることを目的として「牡馬・セン馬限定」となったが、2004年より「牡馬・牝馬限定」に変更され、以降はセン馬(去勢した牡馬)が出走できなくなった[4][5]。外国産馬は1971年から、地方競馬所属馬は1995年から出走可能になったほか、2010年からは国際競走となって外国馬も出走可能になった[4]。
翌年の3歳クラシックレースにも直結する重要なレースとして位置づけられているほか、過去の優勝馬からは古馬になっても大レースを優勝する馬が出るなど、さまざまなカテゴリーで活躍馬を送り出している[4][5]。
競走条件
- JRA所属馬
- 地方競馬所属馬(後述)
- 外国調教馬(優先出走)
出馬投票を行った馬のうち、優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金が多い順に割り当てる。
地方競馬所属馬の出走権
地方競馬所属馬は、同年に行われる下表の競走のいずれかで2着以内に入着すると、本競走の優先出走権が与えられる[1][6][7][8]。
上記のほか、中央競馬で施行する芝の2歳重賞で1着となった地方競馬所属馬も出走申込ができ、この場合は他の中央競馬の登録馬と同じ方法で選出される[7]。
2022年からは中央競馬で施行する芝の2歳重賞で1着となった地方競馬所属馬は優先出走権が得られる[9]。
賞金
2024年の1着賞金は7000万円で、以下2着2800万円、3着1800万円、4着1100万円、5着700万円[1][2]。
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歴史
要約
視点
本競走創設の発起人となったのは、関東競馬振興会(現・東京馬主協会)の重鎮で初代中山馬主協会会長を務めた2代目中村勝五郎の息子、後に第3代中山馬主協会会長になる3代目勝五郎こと中村正行である。中村は当時騒擾事件が頻発していた競馬のイメージ改善を図るため、当時の朝日新聞東京本社編集局長で後に代表取締役専務になる信夫韓一郎に社賞の提供を持ちかけた[10]。
当初は最高格競走である東京優駿(日本ダービー)への提供を企図していたが、国営競馬を主催、運営する農林省(現・農林水産省)畜産局競馬部が一社のみに許可を出すことを良しとしなかったため、代わりに3歳馬のチャンピオン決定戦という性格を持つ特別競走を新設することになった[10]。実父が朝日新聞社企画部長を務めていた朝日新聞東京本社記者遠山彰によれば、当時は社内でも競馬を社会悪と見なす意見が多く、この件が諮られた部長会では激論が交わされたといい、遠山は「父は当然賛成に回ったが、反対派を説き伏せ、決断を下したのは、役員でもあった信夫だったろう」と推測している[11]。「新聞社の名がつく競走ならば競馬の社会的信用も高められる」との考えから、競走名は「朝日盃三歳ステークス」とされた[10]。
戦前から競馬を敵視しつづけた朝日新聞社が競馬を大衆娯楽・スポーツと認めたことは他の大手マスメディアを刺激し[10]、1955年までに読売カップ(読売新聞社)、毎日王冠(毎日新聞社)、東京新聞杯(東京新聞社)、NHK杯(日本放送協会)、日本経済賞(日本経済新聞社)、産経賞オールカマー(産経新聞社)といった競走が次々と新設された[10][12]。
なお、大東亜戦争終結より間もない物資不足の時代であったことから優勝カップは中村が戦前に獲得していた「アラブ大ハンデ」の優勝カップを彫金師の信田洋が仕立て直す形で製作された[10]。このカップは各年度優勝馬主の持ち回りという形で提供されている[10]。また、副賞には中村家の食客であった東山魁夷の12号大の絵がたびたび提供された[12]。
年表
- 1949年 - 3歳馬限定の競走「朝日盃3歳ステークス」の名称で創設、中山競馬場の芝1100mで施行[4]。
- 1953年 - 騎手の谷岡敏行が落馬により死亡する事故が発生。
- 1959年 - 施行距離を芝1200mに変更[4]。
- 1962年 - 施行距離を芝1600mに変更。以後、この施行距離で定着[4]。
- 1970年 - 競走名を「朝日杯3歳ステークス」に変更。
- 1971年 - 混合競走に指定され、外国産馬が出走可能になる[4]。
- 1984年 - グレード制施行によりGI[注 1] に格付け[4]。
- 1991年 - 競走条件を「3歳牡馬・騸馬」に変更。
- 1995年 - 特別指定交流競走に指定され、地方競馬所属馬が出走可能になる[4]。
- 2001年
- 2004年 - 競走条件を「2歳牡馬・牝馬」に変更[4]。
- 2007年 - 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をJpnIに変更[4]。
- 2010年
- 2014年 - 施行場を阪神競馬場に変更[4]。
- 2024年 ー 阪神競馬場リフレッシュ工事に伴う開催日割の変更のため京都競馬場で施行[13]。
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歴代優勝馬
要約
視点
距離はすべて芝コース。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
競走名は第1回から第52回が「朝日杯3歳ステークス」、第53回以降は「朝日杯フューチュリティステークス」[4]。
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朝日杯フューチュリティステークスの記録
- レースレコード - 1:32.3(第72回優勝馬グレナディアガーズ)[16]
- 優勝タイム最遅記録 - 1:40.8(第20回優勝馬ミノル)[注 2]
- 最多優勝騎手 - 4勝
- 柴田政人(第25回・第27回・第33回・第36回)、ミルコ・デムーロ(第62回・第64回・第67回・第70回)、川田将雅(第69回・第72回・第75回・第76回)[注 3]
- 最多優勝調教師 - 5勝
- 最多優勝馬主 - 3勝
- (有)サンデーレーシング(第58回・第61回・第72回)
- 最多勝利種牡馬 - 3勝
- 最年長優勝騎手 - 武豊(第73回・52歳9ヶ月4日)
- 親子制覇
- マルゼンスキー - ニシノスキー・サクラチヨノオー
- グラスワンダー - セイウンワンダー
- 兄弟制覇
- キタノオー・キタノヒカリ(バウアーヌソル産駒)
- サクラチヨノオー・サクラホクトオー(サクラセダン産駒)
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フォトギャラリー
- 第51回優勝馬エイシンプレストン
- 第63回優勝馬アルフレード
- 第66回優勝馬ダノンプラチナ
- 第67回優勝馬リオンディーズ
- 第68回優勝馬サトノアレス
- 第69回優勝馬ダノンプレミアム
- 第70回優勝馬アドマイヤマーズ
- 第71回優勝馬サリオス
- 第72回優勝馬グレナディアガーズ
- 第75回優勝馬ジャンタルマンタル
- 第76回優勝馬アドマイヤズーム
世界の主な2歳馬競走
- イギリス
- フランス
- アイルランド
- アメリカ
- オーストラリア
参考文献
- 中央競馬ピーアール・センター 編『日本の騎手』日本中央競馬会、1981年。
- 中村勝五郎『親子3代馬主80年』中央競馬ピーアール・センター、1984年。ISBN 978-4924426122。
- 遠山彰『日本ダービー物語』丸善ライブラリー、1993年。ISBN 978-4621050972。
脚注
外部リンク
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