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長谷川嘉久
日本のオートバイレーサー ウィキペディアから
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長谷川 嘉久 (はせがわ よしひさ、1960年3月20日[1] - ) は、京都府出身[2]の元オートバイ・ロードレーサー。全日本ロードレース選手権 国際A級通算2勝。身長171cm・体重62kg (1987年時)[3]
経歴
要約
視点
1977年にチーム・フライングドルフィンの一員としてノービス250ccクラスに出場しレースデビュー。翌1978年のノービス250ccでは全7戦中3度の優勝を挙げ同クラスチャンピオンとなる。平忠彦(ランキング3位)、樋渡治も同クラスで戦っており、ほぼデビュー同期のライダーである。

1983年よりホンダが500ccクラスへのプライベート参戦者増加を目指し開発・販売した[4]市販レーサー・RS500Rで全日本500ccクラスに参戦、これに伴いホンダ系チーム「スーパーモンキー」へ移籍。1984年シーズン後半から連続入賞など好レースを見せ、第10戦鈴鹿(日本GP)では平忠彦、河崎裕之のヤマハワークス2台に次ぐ3位表彰台を獲得する。同年の最終ランキング6位に入り、ベストプライベーターとなった長谷川をヤマハが評価し、翌年からヤマハ普及契約ライダー[5]となった[6]。
1985年よりエントリーチームをフライングドルフィンに復帰し、ヤマハファクトリーから前年型ヤマハ・YZR500を供給される。長谷川は第4戦筑波大会で平、水谷勝に次ぐ3位表彰台を獲得。シーズン終了後の10月6日に開催されたTBCビッグロードレースでは最新型YZR500 (OW81)[7]に乗るチャンスを得た。悪天のウェットレースとなった決勝レース[8]では、世界王者エディ・ローソンやクリスチャン・サロンが共に転倒を喫する難コンディションだったが[9]、ホンダワークスの木下恵司を破り、平に次ぐ総合2位表彰台を獲得する活躍を見せた[10]。
1986年より250ccクラスに転向、当初はヤマハサポートのTZ250で参戦予定だったが[11]、開幕前テストでYZRに乗る奥村裕が負傷、長谷川が急遽ヤマハファクトリーのYZR250を託され、片山信二と共に打倒・ホンダNSRと全日本選手権タイトル獲得が任務となった。片山は当時見た同じマシンに乗る長谷川の走りを、「500ccを経験しているので、YZR250を500のように操っていた。コーナー出口でのアクセルオープンが高い次元だった。」とその印象を語っている[12]。

250の開幕戦となったSUGOでは、終盤まで食い下がるRTKホンダの喜多祥介を振り切り優勝。長谷川にとってA級初優勝でもあった。2戦めの鈴鹿も片山を上回って連勝、3戦連続のポールポジション獲得など速さを見せポイントリーダーとしてタイトル争いをリードする。しかし、中盤戦以後はホンダNSRを貸与され台頭した清水雅広や、2勝をあげた片山信二にポイント差をつめられ、最終戦を前にランキング2位へ後退。4ポイント差で迎えた最終戦・鈴鹿では片山の前を走りポイント再逆転を目指すが、最終シケインでクラッシュを喫し惜しくも全日本チャンピオンを逃す。結果的に同年がキャリアハイのシーズンとなった。1987年もYZR250で参戦するが、シーズン途中第6戦よりヤマハが市販レーサーTZでポールポジションを獲得するなど健闘を続けていた本間利彦にYZR250を供給することを決め、入れ替わる形で長谷川の参戦マシンはTZ250へと変更される。以後もフライングドルフィンから全日本250ccクラスに参戦した。
引退後は、京都市伏見区でホビーショップを経営。古巣のフライングドルフィン・カスノモータースのイベントに参加することがある[13]。
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レース戦歴
全日本ロードレース選手権
ロードレース世界選手権
鈴鹿8時間耐久ロードレース
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脚注
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