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1986年の全日本ロードレース選手権

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1986年の全日本ロードレース選手権 (1986ねん の ぜんにほんロードレースせんしゅけん) は、1986年昭和61年)3月9日鈴鹿BIG2&4レースで開幕し、同年9月14日第23回日本グランプリ (鈴鹿)で閉幕した全11戦による1986年シーズンの全日本ロードレース選手権である。

1986年の全日本ロードレース選手権
前年: 1985 翌年: 1987

最高峰カテゴリーの500ccクラスチャンピオンは木下恵司ホンダ)が獲得した[1]

1986年シーズン

要約
視点

500cc

500ccクラスでは、ヤマハのエース平忠彦がヨーロッパへと主戦場を移して世界選手権(WGP)250ccにフル参戦を開始したため、ホンダの木下恵司スズキ水谷勝がタイトル争いの軸と予想された。全日本でのヤマハ・レーシングは、最新型YZR500での参戦はこのマシンの開発者でもあるベテラン河崎裕之のみとなった[2]

開幕戦の鈴鹿BIG2&4でスポット参戦した平とトップ争いをしたのは、4ストロークのTT F1クラスから今季500ccクラスに転向し、前年型NSR500を貸与されたモリワキ八代俊二だった。また、このレースまでプライベーターとして型遅れの市販レーサー・RGB500で参戦していた500cc最年少ライダー(当時19歳)の藤原儀彦に、ヤマハが前年型YZR500 (OW81)を次戦より貸与する方針が決まった[3]

第2戦筑波が雪のため中止となり[4]、第3戦SUGOからホンダは木下に加えて八代にも最新型NSRを供給。このレースでは河崎がレースをリードし、トップのまま終盤を迎えるも、転倒し勝利を逃す。代わりに木下が今季初勝利を挙げポイントリーダーに立った。ホンダV4エンジンを積みパワフルなNSRは、水谷のスズキ・RG-Γよりもストレート加速がよく、第4戦鈴鹿でも木下が勝利し2連勝。一方のヤマハは、河崎が前戦の転倒の影響でこの第4戦に出走できず、タイトルを狙える状況ではなくなった。

第5戦筑波大会ではこのコースでのブレーキング勝負を得意とする水谷が奮闘、八代、木下をヘアピンコーナーのブレーキングで攻略しシーズン初勝利を挙げた。2週後の第6戦SUGOでは八代が500では初のポールポジションを獲得、決勝でも完勝で500cc初勝利を果たす。八代の開幕戦からの成長を評したホンダは、急遽翌週からWGP500に八代を参戦させることを決定した[5]

この時点で八代は、首位の木下と1ポイント差の全日本500ランキング2位につけており、タイトル争いは国内唯一のNSR500となった木下が有利となった。第10戦SUGOでシーズン2勝目を挙げ、勝てない場合には確実に表彰台を確保。水谷が終盤2戦をノーポイントと躓いたこともあり、最終結果でランキング2位を保っていた八代に40ポイントの大差で木下が5年ぶりの500ccチャンピオンを獲得した[6]。これはホンダにとって初の全日本500ccタイトル獲得であった。

木下のチャンピオン確定後の開催となった全日本最終戦・日本グランプリロードレース大会では、WGP最終戦サンマリノGP・250ccクラスで優勝という大きな成果を残した平忠彦と、WGP500初優勝を含むシーズン3勝を挙げ世界ランキング2位に浮上したワイン・ガードナーが参戦。この2人が展開した11回順位を入れ替えるトップバトルは鈴鹿に集まった7万人の観衆を沸かせた[7]

自身二度目の500ccチャンピオンとなった木下は、「86年はつらかった。平君がいなくて、僕が勝つのが当たり前みたいなところあったでしょ。ケガして、手の握力が30kgもないような状況で走っているときもあった。でも終わってみればチャンピオンとれたし、目標としていた鈴鹿での16秒台も出せた。87年は鈴鹿でなんとか2分15秒台に入りたい。」とチャンピオン獲得の感想を述べた[8]

250cc

ホンダがワークスマシンNSRを全日本250ccクラスに複数台投入開始し、対抗するようにヤマハもV型エンジンのワークスマシン・YZR250を2台投入[9]、ホンダ・ヤマハのワークスマシン対決が本格的に開始された年となった。ホンダワークスのチームHRCは2年連続王者である小林大を引き続き250でのエースとして参戦。ヤマハは、片山信二長谷川嘉久の2名にYZRを供給。ヤマハの250でのエース格は奥村裕だったが、負傷のため後半からの参戦となった。YZR250は同年のWGP250カルロス・ラバードが実証したようにトルク特性がよく、走り出せば速さを持っていたが[10]、同じくWGPにおいて平忠彦も苦労していた押しがけスタートでのエンジンの掛かりが悪いという特徴があり、全日本でも片山・長谷川両名ともスタートで後方に沈み、中団から追い上げる展開が多くなった。

開幕するとホンダの小林大は調子を崩しておりトップ争いに加われず、ヤマハの長谷川が連勝でポイント争いをリードする。長谷川に続くランキング2位には、片山が始動性に難があるYZRでスタート失敗が続いたが、追い上げて表彰台を獲得するレースを積み重ねていく。HRCは急遽、それまで市販レーサーRS250で予選上位のタイムを出していたテクニカルスポーツ関東の清水雅広にも最新型NSRを供給開始、NSRを乗りこなした清水はエース格の小林を凌ぐ速さを見せクラス最多の優勝数を挙げたが、トップ争い中のマシントラブルや最終戦での転倒リタイヤでポイントを積み上げられなかった。片山はノーポイントレースが少ない走りで、最終戦日本GP鈴鹿を前に4ポイント長谷川をリードする。この最終戦でホンダ勢はWGP最終戦を終えたアントン・マンクアルフォンソ・ポンス、かつてのWGP王者コーク・バリントンもNSR250で出走するなど台数を増やし[11][12]、片山の全日本タイトル獲得のプレッシャーが強まった。片山は当時を「最終戦はその前の週からプレッシャーを強く感じていて、周囲の人たちとまともに話が出来なくなっていた。」と語っている[13]。決勝レースではスタート直後長谷川が片山より上位を走り、逆転タイトルの可能性が生じたが、最終シケイン進入で長谷川が転倒。以後片山は着実にポイント加算を狙いゴール。ランク2位の長谷川に20ポイント以上の差をつけヤマハに250タイトルをもたらした[14]

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スケジュールおよび勝者

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  • 第2戦筑波大会のA級500ccと250ccクラスは、積雪のため決勝レース中止。
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シリーズポイントランキング

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  • 第11戦日本GPでは特別ポイントとして入賞者に従来のポイント+3ポイントが与えられる。

500cc

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250cc

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125cc

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TT F1

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TT F3

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ジュニア区分

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関連項目

脚注

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