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1985年の全日本ロードレース選手権
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1985年の全日本ロードレース選手権 (1985ねん の ぜんにほんロードレースせんしゅけん) は、1985年(昭和60年)3月10日の鈴鹿BIG2&4レースで開幕し、同年9月8日の第22回日本グランプリ (鈴鹿)で閉幕した全11戦による1985年シーズンの全日本ロードレース選手権である。
1985年の全日本ロードレース選手権 | |||
前年: | 1984 | 翌年: | 1986 |
1985年シーズン
前シーズン500cc連覇を果たした平忠彦は、今季ヤマハのエースとして三連覇と、近い将来のWGP進出を目標としていた。それを阻むべくホンダ・ワークスでの二年目を迎える木下恵司と、スズキのRG-Γ500での参戦となり、前年のRGBより戦えるマシンとなった水谷勝がどこまで迫ることができるかが焦点のシーズンであった[2]。

また、平は前年のWGP500スポット参戦やデイトナ200参戦を機に、世界選手権で戦うためのパワースライドを駆使したコーナーリングに移行しており、国内での戦いでどう走りを進化させていくのかを自らの課題としていた[3]。

WGPの合間を縫って全日本へスポット参戦したワイン・ガードナーを除けば、平を破りレースを制した日本のライダーは第10戦SUGOでの水谷勝の1度のみとなり、木下はシーズン中盤から全日本に初投入されたV4エンジンのNSR500に乗り換えたが、最高位は2位でシーズン未勝利に終わった[4]。
全日本500三連覇を達成した平はシーズン終了後アメリカへ行き、鈴鹿8時間耐久でコンビを組んだケニー・ロバーツの邸宅でダートトラックやオフロードの遊びを組み込んだトレーニングを導入し、ライディングの幅を広げる。同年末、ヤマハは翌1986年のWGP250ccクラスへフル参戦させることにGOサインを出し、平が全日本選手権をメインに戦ったのはこの1985シーズンが最後となった[5]。
ガードナー、シュワンツの参戦
鈴鹿での全日本500ccとTT F-1にスポット参戦したホンダ・ブリテン所属のGPライダーワイン・ガードナーは、参戦した全日本の6レースすべてで優勝。鈴鹿8時間耐久ロードレースでも優勝し、ホンダからの評価を高めた[6]。WGP500で世界ランキング4位と好成績だったことも相まって翌年からホンダのワークス本隊「ロスマンズ・ホンダ」入りが決定する飛躍のシーズンとなった[7]。
6月の鈴鹿200㎞レース大会には、ヨシムラ・スズキGSX-R400で20歳のヤングアメリカン・ケビン・シュワンツがスポット参戦。初来日だったシュワンツは翌月にグレーム・クロスビーのパートナーとして鈴鹿8時間耐久への初出場を控えており、まずTT F-3に参戦し鈴鹿のコースを習熟する機会であったが、この日本初レースで2位表彰台を獲得、以後の活躍の第一歩を刻んだ[8]。
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スケジュールおよび勝者
- 8月10日予選、11日決勝の開催予定だった第9戦筑波大会は、予選開始前のコースチェックで路面のアスファルト舗装から油分が染み出た個所や、うねりのある箇所(※前週に四輪の筑波9時間耐久レースが高温下で行われた影響と主催者説明。)があり、走れる路面コンディションではなく危険という報告が多数のライダーからあり、出走を取りやめるエントラントが続出。予定されていたA/B級500cc、125cc、F-1の各クラスは5台未満の予選出走となったため8月10日に主催者からレース不成立が発表され、ノービスの250、125、F-3の3レースのみ開催となった。
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シリーズポイントランキング
- 最終戦日本GPでは特別ポイントとして入賞者に従来のポイント+3ポイントが与えられる。
500cc
- 太字はポールポジション。
- ※A/B級混走で行われた500ccはB級ライセンスでの出走選手が藤原儀彦のみのレースが多く、参戦台数不足によりB級500ccクラスは競技不成立、藤原は総合順位で入賞圏内の結果でもポイントが発生しなかった。
- 藤原儀彦は多くの場合ゼッケンNo.50で出走したが、サーキットによって違うNo.で出走する場合もあった。
250cc
- 太字はポールポジション。
125cc
- 太字はポールポジション。
- 国際A級/国際B級混走の総合順位を表示。
TT F1
- 太字はポールポジション。
TT F3
- 太字はポールポジション。
ジュニア区分
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関連項目
脚注
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