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北尾重光

江戸時代後期から明治時代の浮世絵師 ウィキペディアから

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北尾 重光(きたお しげみつ、文化11年(1814年)- 1883年明治11年)11月16日)は、江戸時代後期から明治時代浮世絵師群馬県邑楽館林地区を中心に多くの奉納絵馬を描いた[1]

概要 北尾 重光, 生誕 ...

生涯

文化11年、江戸に生まれる[2][1]。若い頃より学問を好み、特に絵画に秀でていたという[2]浮世絵師としては北尾派に学んで北尾の姓を名乗り、溪齋と号し、法橋の位を授けられている[2][1][3]。ただし、重光は紅翠斎北尾重政門人を自称してはいるが、重政の没年である文政3年(1820年)にはまだ幼少であり、弟子入りしていた可能性は低いともされる[4]。北尾派との繋がりも確認できず、むしろ葛飾派との近さが感じられる、とする研究もある[5]

天保9年(1838年)頃、25歳前後で館林に移り住み、館林城下の田町[注釈 1]という字に居を構え、絵馬を描くことを生業とした[2][7]。その描いた絵馬は館林を中心に、館林藩領であった埼玉県栃木県の一部にも及ぶ広い地域の寺社に奉納され、その数は300点にも及ぶとされている[7]

1883年明治16年)11月16日、71歳で死去。館林市内の覚応寺に、妻である久能[注釈 2]と共に葬られた[1]

北尾重輝

息子の北尾 重輝(きたお しげてる)もまた絵画を生業としたが、のちに館林を去り、宇都宮近辺に住んだとされる[8][1]

遠浪斎重光

同時期に遠浪斎重光と号する、経歴の知られていない浮世絵師があるが、この遠浪斎と北尾重光が同一人物だと考える研究もある[注釈 3][9]

逸話

史実か否かはわからないが、重光が江戸を去り館林に来ることになった経緯が伝わっている。重光は江戸で美人画を描いていたが、ある時上半身半裸で髪を洗う美人の絵を描いたところ、誤って筆を落とし、絵の乳房の下を汚してしまった[2][3]。重光は機転を利かせて、この汚れを黒子として描きなおしたが、この美人画の女性が将軍家に仕える奥女中に酷似し、さらに不思議なことには、その女性も絵と同じところに黒子があった[2][3]。そこでこの重光の美人画を見た幕府の役人は、重光が将軍家を愚弄したものと考え、彼を江戸から追ったという[2][3]

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重光と妻久能の墓

館林市栄町の覚応寺に存在し、息子の重輝によって建立された[1]。高さ77cm、幅32cm、厚さ15cm程度で、台石の高さは20cm[1]。墓石の表面には『釈現生居士 明治十六年十一月十六日 俗名北尾重光 行年七十一才』『釈妙成信女 明治六年酉十二月八日 重光妻俗名久能 行年六十一才』、裏面に『北尾重輝建之』と刻まれている[1]。館林市指定史跡[1]。もとは宮杉家の墓域にあったものを、整備に伴い現在地に移転している[10]

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作品

要約
視点

歴史故事を題材とした武者絵が多いが、拝み図や参詣図、生業図、祭礼図などの幅広い画題も描いている[11][4]。知られている作品の中では、館林市の足次赤城神社関羽図絵馬と、板倉町大曲八幡宮の絵馬が、いずれも天保9年(1838年)、25歳頃の作品で最も古い[5]。その後明治まで、年毎に複数の絵馬が確認され、館林周辺では「渓斎北尾重光筆」「紅翠斎門人館林住人北尾重光筆」などの落款を持つ立派な絵馬が小さな神社などでも奉納されており、絵馬屋として順調に活動していたようである[5]

北尾重光および息子重輝の作品のうち、判明しているものの一覧を示す。出典のないものは『館林市立資料館特別展 北尾重光の絵馬』図録より[12]

重光の作品

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重輝の作品

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ギャラリー

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脚注

参考文献

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