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2008年北京オリンピックの野球競技・日本代表
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2008年北京オリンピックの野球競技・日本代表(2008ねんペキンオリンピックのやきゅうきょうぎ・にっぽんだいひょう)は、2008年に北京で開催された北京オリンピックの野球競技に出場した野球日本代表である。通称星野ジャパン。
概要
要約
視点
監督決定の経緯
2004年、アテネ五輪では本戦4ヶ月前に長嶋茂雄日本代表監督が脳梗塞で倒れ、中畑清が監督代行(登録上は監督)で挑み、3位(銅メダル)に終わった。
大会後、長嶋監督は当初「北京五輪では体調を取り戻し、今度こそ金メダルを取りたい」とメッセージを出していたが、半身麻痺と言語障害の回復状況から就任は難しい状況であった。
2005年、メジャーリーガーを含めた初めての世界大会であるWBCの監督には王貞治が就任し、翌2006年3月、王JAPANが優勝。王には次回の代表監督との声もあったが、「球界もいつまでも自分やミスター(長嶋茂雄の愛称)ばかりというのはどうだろう」と発言し、自身は代表監督をその大会限りで退くことを明言した。
2006年、阪神タイガースの星野仙一オーナー付シニアディレクター (以下星野SD) に北京五輪監督就任の要請が行われた。星野SDはアテネ五輪の頃から「リーグは制限枠を撤廃すべき」とオリンピックに関する前向きな提言を行っていた。またアテネ五輪で長嶋が倒れた際には代行の誘いもあったが、「中途半端な形での引き受けは難しい」と考え、多忙等を理由に断っていた。
2007年1月25日、星野SDの監督就任とコーチ陣が正式決定。投手コーチはアテネ代表から引き続き大野豊。星野の盟友である田淵幸一(打撃)、山本浩二(守備走塁)も入閣。
アジア予選
2007年12月に開催されたアジア予選では開催国の中国が出場権を得ている関係上、1位(事実上全勝)通過しなければ世界最終予選に廻る必要があったが、全勝で1位通過し本選への出場権を獲得した。
本戦での結果
予選リーグはキューバ、韓国、アメリカには敗れ4勝3敗。準決勝でも韓国に、3位決定戦でもアメリカに敗れ、メダル無しの4位に終わった。大会を通じて4勝5敗となった。
敗因
星野監督は敗因について、2008年11月26日に日本オリンピック委員会から公表された「北京五輪日本選手団報告書」で選手のメンタルや国際大会の経験不足などを挙げた[1]。
- メンバー選考
- 星野監督は3月に中田翔・由規・加藤幹典・大場翔太ら新人選手も含めた1次候補77選手を発表し、6月にはアジア予選メンバーを主体にした代表選手の決定を行う予定だった[2]。しかし、アジア予選メンバーや代表候補に故障者や上原浩治ら不調となる選手が相次ぎ、編成作業は難航した[3]。
- 選出を明言していた上原と直接電話会談するなど、最終的にアジア予選メンバーから星野監督が19人を選出し里崎智也、森野将彦ら故障上がりのメンバーも選出した。ところが、メンバー招集までに新井貴浩が腰痛、稲葉篤紀が右臀部痛、田中将大が右肩痛を発症した。代表合宿中には村田修一が風邪で緊急入院し、北京入りしてからは川﨑宗則が左足甲痛を、西岡剛が右脇腹痛をそれぞれ悪化させた。
- 前回のアテネ五輪(1球団2人までの制限があった。)の反省を生かし、枠に拘らないフリーな人選が可能であり、または直前のメンバー変更も可能であったが7月17日のメンバー発表後はメンバーの入れ替えは行わなかった。なお、前半戦最多勝の岩隈久志ら好調でも選ばれなかった選手もいた。
- 準決勝では、予選で2度救援に失敗した岩瀬仁紀を再び起用し岩瀬が決勝点を与え敗退、3位決定戦では準決勝の韓国戦で2失策をした埼玉西武の佐藤隆彦(G.G.佐藤)を「(名誉挽回の)チャンスを与える」と起用したが、佐藤の失策を一つのきっかけに逆転を許してしまい再び敗退した。「大事な場面になるほど、情に走る」[5] と批判的な報道も見られた。星野監督自身も「オレという人間の弱さがモロに出た」と弁明した[6] が、帰国後のテレビ番組で短期決戦でチャンスを与えたことに疑問を呈されると「代わりがいなかった」とも発言した。
星野JAPANの経過
2007年
- 1月25日 - 星野監督、田淵・山本・大野の3コーチが正式に就任
- 8月 - 北京で行われた北京プレオリンピックに出場し、優勝
- 12月 - アジア予選を3戦全勝し、北京五輪出場を決める
- 2月 - 監督・コーチが各球団のキャンプを視察
- 3月 - 監督・コーチが最終予選を視察
- 3月31日 - 1次候補77選手を発表
- 5月20・21日 - 星野監督が実戦感覚を養うため、ウエスタン・リーグ阪神-広島戦(阪神甲子園球場)を指揮(20日が阪神、21日が広島カープ)
- 5月21日 - 本選1次リーグの組み合わせが発表される
- 6月2日 - 候補選手のケガや不調が続出していたため、当初6月20日に行う予定だった代表候補の決定を7月中旬に延期することを決定
- 6月6日 - 1次候補の追加4選手を発表
- 6月20日 - 最終候補39選手を発表
- 7月 - オランダで開催されるハーレムベースボールウィーク(キューバとオランダが参加)を監督・コーチが視察
- 7月17日 - 代表メンバーの発表
- 7月23日 - 北京五輪組織委員会へのエントリー期限
- 8月2-7日 - 代表合宿(川崎市・ジャイアンツ球場)
- 8月8日 - パシフィック・リーグ選抜と壮行試合(東京ドーム)を行い、6-4で勝利
- 8月9日 - セントラル・リーグ選抜と壮行試合(東京ドーム)を行い、2-11で大敗
- 8月13日 - 北京五輪野球競技(予選リーグ)開幕
- 8月20日 - 予選ラウンド終了、4勝3敗の4位で準決勝に進出
- 8月22日 - 準決勝で敗れ、3位決定戦に回る
- 8月23日 - 3位決定戦で敗れ、4位に終わる
オリンピック終了後の経過
オリンピック終了後、WBCの監督問題について報道が多くなった。監督を変えなくていいという声もあがった[17][18] 一方、中日ドラゴンズの西川順之助社長[19]は星野の監督としての資質を疑問視する発言をした[20][21]。NPBでは、加藤良三コミッショナーがWBC体制検討会議を招集して監督問題などを検討したが、星野の就任を既定路線化するものであったと報道された[22][23][24]。さらにイチローらが監督選考に対して発言し[25]、イチローの発言については多くのファンが支持した。ファンの世論に押された格好で、星野はWBCの日本代表監督就任を断念することとなった。
8月頃に非公式で打診された落合博満(中日監督)が結局開催時期を理由に固辞[26]、監督選びは二転三転した結果、原辰徳(巨人監督)が監督に就任することとなった。
北京五輪メンバーの多くはWBC代表候補にも選出されたが、岩瀬仁紀や森野将彦が「もう2度と行かない。断って下さい」として辞退する等[27]、影響を与えている。
→WBCの監督選考問題については2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表を参照
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代表メンバー
いずれも選出当時。
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試合結果
要約
視点
日本代表強化試合
8月8日
開始:18:03、試合時間:2時間59分、観客:20,001人 東京ドーム[28]
8月9日
開始:14:02、試合時間:2時間55分、観客:28,227人 東京ドーム[29]
予選リーグ
8月13日
開始:19:00、試合時間:3時間6分、観客:7,486人 Wukesong Baseball Main Field[30]
8月14日
開始:19:00、試合時間:3時間6分、観客:7,690人 Wukesong Baseball Main Field[31]
8月15日
開始:19:00、試合時間:2時間36分、観客:6,600人 Wukesong Baseball Main Field[32]
8月16日
開始:19:00、試合時間:3時間29分、観客:8,124人 Wukesong Baseball Main Field[33]
8月18日
開始:10:30、試合時間:2時間24分、観客:2,752人 Wukesong Baseball Main Field 2[34]
8月19日
開始:18:30、試合時間:2時間11分、観客:1,680人 Wukesong Baseball Main Field 2[35]
8月20日
開始:19:00、試合時間:3時間21分、観客:8,552人 Wukesong Baseball Main Field[36]
準決勝
8月22日
開始:10:30、試合時間:3時間8分、観客:8,480人 Wukesong Baseball Main Field[37]
3位決定戦
8月23日
開始:10:30、試合時間:3時間6分、観客:8,750人 Wukesong Baseball Main Field[38]
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北京プレオリンピック代表と戦績
→詳細は「北京プレオリンピック野球日本代表」を参照
北京五輪アジア地区予選兼第24回アジア野球選手権代表と戦績
→詳細は「第24回アジア野球選手権大会日本代表」を参照
脚注
関連項目
外部リンク
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