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SIAM SHADE
日本の5人組ロックバンド ウィキペディアから
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SIAM SHADE(シャムシェイド)は、日本の5人組ロックバンド。1995年にメジャー・デビューし、2002年に一度解散したが、2007年、2011年、2013年、2015~2016年と一時的な再結成を行っている。インディーズ時代はヴィジュアル系として活動していた。
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メンバー
元メンバー
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来歴
要約
視点
子供のころから鍵盤楽器を趣味として演奏し、中学1年生の頃から作曲なども行っていた栄喜が、高校生の頃にHOT WAVEという大会にデモテープを送り、1,725人の応募の中から優勝を勝ち取ったことにより、本格的なバンド活動を開始したことが起源のひとつとされる[3]。DAITAとNATCHINは小中学校が同じであり、栄喜も隣の中学校であったため、バスケットボール部などの活動を通じて、子供の頃から互いに面識があった[4]。
- 1989年3月、栄喜が「女の子にもてたい。そのためにも格好良いバンドを組んで目立とう」と思い立ち、友人のNATCHINを誘ってSIAM SHADEの母体となるバンド、POWERを結成。
- 同年、YOKOHAMA HIGH SCHOOL HOT WAVE FESTIVALに出場してサマーグランプリ賞(優勝)を受賞[5]。POWERとして暫く活動をしていたが、突如メンバー数人が脱退。残留メンバーはバンド活動継続のために音楽仲間や友人を勧誘。この時、DAITAが一度加入しているが「音楽性が合わない」とすぐに脱退してしまっていた。その後知り合ったATARUと新バンド、atæru(アタール)を結成。
- 1992年、LOVE JETSというバンドでボーカルをしていたKAZUMAを栄喜が勧誘。その際、栄喜は「自分は他のバンドに移籍する(atæruを辞める)ので、atæruのボーカルを引き受けて欲しい」と告げていたが、結局、脱退はせずに留まったため、ツインボーカルの形式をとることになった。その後DrにA(EI)が加入。
- 1993年、入手したパチンコ屋の設定情報を元に儲け、レコーディング費用として貯蓄していた約100万円を使い4曲入りデモテープを制作し無料配布する。これを機にバンド名をSIAM SHADEに改名。同年7月、「やはりギターはDAITAしかいない」とメンバー内で意見が一致し、DAITAを探し出してバンドに復帰してくれるよう説得した。のちに承諾を得ることに成功する。当時は長髪に濃いメイクをするヴィジュアル系に倣ったコンセプトだったので、加入直後はまだ短髪だったDAITAは髪が伸びるまでカツラをかぶってライブに出ていた。
- 1994年5月に淳士加入。12月、1stアルバム『SIAM SHADE』がオリコンインディーズチャートで初登場2位を記録。
- 1995年8月、渋谷公会堂のワンマンライブでの前半のコント内でゲストに高木ブーを迎え、共演。
- 同年10月21日、「RAIN」でメジャーデビュー。
- 1997年、「RISK」が『恋、した。』(テレビ東京系)のエンディングテーマに採用される(1997年4月7日~放映開始)。同年5月21日、4thシングルとしてリリース。
- 1997年、6thシングルの「1/3の純情な感情」がテレビアニメ『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』のエンディングテーマに起用されスマッシュヒット。
- 2000年1月1日、横浜アリーナにおいて元日ライブを敢行。
- 2000年8月29日、インディーズ時代より行っていた男性限定ライブ「男樹」を渋谷ON-AIR EAST(現在のShibuya O-EAST)にて行う。なお、前日にも大阪で同様のライブを行っている。
- 2001年12月28日、念願であった日本武道館で初ライブ。
- 2002年年頭に解散を発表。
- 2002年3月10日、再び日本武道館においてラストライブを行い、日本武道館においての最多動員数15,000人を記録。この日をもって解散。
- 2007年11月18日、一夜限りの再結成(彼らの元チーフマネージャーである中村新一が死去したため、追悼の意味を込めて一夜限りの武道館LIVEを決行)。約13,500人を動員。なお、この公演の映像化、テレビでの放送予定はなかったが、2013年のツアーパンフレットに付属していたDVDに3曲収録された。
- 2010年10月27日、メジャーデビュー15周年を記念して、SIAM SHADEのトリビュートアルバムの発売が決定。また同日にSIAM SHADE初のライブベストアルバムの発売も決定された。
- 2011年4月29日、公式ホームページで復興支援ライブの開催を発表。
- 2011年7月17日、Zepp Sendaiでチャリティーライブを開催。
- 2011年10月21日、メジャー・デビューから丸16年を迎えたこの日にさいたまスーパーアリーナで震災復興支援のためのライブを行う。なおこの日のライブの模様は後日DVDで発売された。
- 2012年4月14日、現在、入手不可能となっている1stアルバム『SIAM SHADE』にインディーズ時代の3曲を加えたアルバム『SIAM SHADE SPIRITS 1993』をリリース[6]。
- 2013年4月25日、再々再結成を発表。2013年中に12年ぶりのツアーを行う(6ヶ所、7公演)。
- 2015年6月27日、LUNA SEA主催フェス「LUNATIC FEST.」に出演。メジャーデビュー20周年の再々々再結成に先駆ける形だったため、栄喜曰く「今解散している状態」。[7][8][9]
- 2015年10月18日、メジャーデビュー20周年ライブの第1弾として、さいたまスーパーアリーナにてライブを行う。
- 2015年10月21日、メジャーデビュ−20周年当日にZepp Tokyoにてライブを行う。
- 2016年2月6日より、メジャーデビュー20周年ライブの第3弾として、全国5カ所(6公演)のZeppツアーを行う。
- 2016年10月20日に、『20th Anniversary year 2015-2016 最終公演《FINAL ROAD LAST SANCTUARY》』を日本武道館にて開催。この公演をもって、SIAM SHADEとしての活動を完結した[10]。
- 2024年11月4日、NATCHINが公式サイトで「ファンの皆様へ」と題した文章を公開[11][12]。栄喜、KAZUMA、NATCHIN、淳士の4人が2019年から弁護士に依頼してDAITAに対して訴訟を提起していた事、その訴訟が和解により円満に解決した事を報告した。今後も、SIAM SHADEのメンバーは栄喜、KAZUMA、 NATCHIN、淳士、DAITAの5人であるとした上で、栄喜、KAZUMA、NATCHIN、淳士の4人のみで活動することが多くなるかもしれないとしている。
- 2024年11月21日、2025年2月9日に大阪・大阪城ホールでスペシャルライブ「1995 SIAM SOPHIA-G」出演を発表。SOPHIAとの合同ライブで、当初「一夜限り」と謳われた(しかし、その後複数回同様のライブを行っている)。なお、このライブへの参加は栄喜、KAZUMA、NATCHIN、淳士の4人となった[13]。
- 2025年1月2日 新田龍の記事により、DAITA側によるSIAM SHADEメンバー間訴訟について詳細に述べられている。筆者が直接、訴訟中にDAITA本人より相談を受けたとして臆測や他の記事と違う部分を説明している[14]。
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解散の背景
前述の通りバンドは2002年に解散しているが、DAITAによればこの背景には「栄喜による度重なる暴力行為」があったという[15]。
元々、SIAM SHADEはインディーズ時代から人気があり、1995年に鳴物入りでメジャーデビューするも、ライブ動員数こそ順調である一方で、CDはデビュー当初から売れない時代が長らく続いた。同時期のデビュー組が次々とヒットしていた状況による焦りやプレッシャーがのし掛かり、1997年頃から、栄喜による他メンバーや関係者への暴力行為が度々発生していた。1997年にシングル『1/3の純情な感情』は大ヒットしたが、バンドを巡る状況は一変するどころか逆にメンバー間の溝は埋まらなかった。1999年4月の鹿児島でのライブでは怪我により、翌日の熊本でのライブの開催を延期する事態となっていた[15]。
決定打となったのは2001年11月、翌月の武道館公演のためのプロモーションで名古屋を訪れていた際の打ち上げの飲食店にて、栄喜がチーフマネージャー(中村新一)に殴りかかり、マネージャーが眼底骨折の重症を負った。現場にはメンバーだけでなくレーベルやスタッフ関係者も多数いたことから、当時のレーベルだったソニー・ミュージックエンターテイメント(SMEレコーズ)と所属事務所(アミューズ)の幹部が激怒。数日後に幹部を交えて話合いの席が設けられ、バンドの解散が決定した[15]。
2002年の解散ライブ直後もメンバー間の溝は埋まらず、DVDの制作中においてもメンバー同士で揉め事が起こり、乱闘騒ぎに発展。この時は止めに入ってもまったく収まらず、警察まで呼び寄せる騒ぎになった[15]。
メンバー間の訴訟問題
2002年の解散後、バンドは複数回の復活を経ているが、解散前に起きた前述の一連の出来事での信用失墜により、復活ライブでは当時の所属事務所(アミューズ)やレーベル(ソニー・ミュージックエンターテイメント)からのサポートを受けられず、最終的にはライブやグッズ販売などの収益の管理業務と各メンバーへの分配は、DAITAの個人会社が実務を請け負っていた。尚、印税の配分については、解散前は各メンバーに5分の1ずつ均等割りにして配分していたが、DVD制作時のスタジオ乱闘騒ぎの時、栄喜の強い要望により配分率の変更を余儀なくされた結果、作曲、作詞、編曲者それぞれに3分の1の配分にすることになり、メンバー全員が合意している[16]。
このような偏ったバンドの音楽ビジネスが、解散後に権利を巡ってメンバー間の訴訟トラブルへと発展しており、DAITAとそれ以外のメンバー4人との闘争が現在でも続いている。実際に、SOPHIAとのコラボである「SIAM SOPHIA」にはDAITAは参加していない。
2024年に栄喜が特許庁に『SIAM SHADE』という名称を単独名義で商標登録申請したが、2025年7月に特許庁によって拒絶されている。理由は、権利者であるメンバー全員の同意が得られている証明がないからだという[16]。
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ディスコグラフィ
要約
視点
インディーズ
デモテープ
- SIAM SHADE (1993年5月1日) (限定500本無料配布)
- 1. END OF LOVE
- 2. I BELIEVE
- 3. TRAGIC MINE
- 4. LOSE MY REASON
シングル
- DOLL(1993年12月19日)(初ワンマンLive無料配布CD)
- 1. LIGHT FOR CLOSED YOUR EYES
- 2. DOLL
ミニアルバム
- SIAM SHADE(1994年12月10日)インディーズチャート最高位2位
オムニバスアルバム
- EMERGENCY EXPRESS 1994(1994.02.01)9曲目「END OF LOVE」(デモテープ収録曲)で参加。
1曲目には当時淳士がいたバンドNERVE(ボーカルはHIDEの弟子KUMA)の曲が収録。
オムニバスビデオ
- AREA II(1993年)「END OF LOVE」収録
- AREA IV(1993年)「時の川の中で」収録
2曲目は、ミニアルバム『SIAM SHADE』収録曲。
メジャー
シングル
- 「RAIN」〜「曇りのち晴れ」は、2007年11月14日に12cm化として再発。
- 「Still We Go」はライブ会場及び通販限定で発売。(一般流通は未定)
配布・企画シングル
オリジナル・アルバム
VIIIとIXはベストであり、VII はボーカルを差し替えたミニアルバムなのでオリジナルとしてはVIが最後になる。
ベスト・アルバム/企画アルバム
オムニバス・アルバム
トリビュートアルバム
映像作品
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タイアップ一覧
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ライブ・イベント
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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