トップQs
タイムライン
チャット
視点

USエアウェイズ1549便不時着水事故

2009年にアメリカで発生した航空事故 ウィキペディアから

USエアウェイズ1549便不時着水事故
Remove ads

USエアウェイズ1549便不時着水事故(USエアウェイズ1549びんふじちゃくすいじこ)は、2009年1月15日午後3時30分頃(東部標準時UTC-5〉)に、ニューヨーク発シャーロット経由シアトル行きのUSエアウェイズ(現:アメリカン航空)1549便が、ニューヨーク市マンハッタン区付近のハドソン川に不時着水した航空事故

概要 出来事の概要, 日付 ...

離陸してから着水までわずか5分間での出来事であり、乗員・乗客全員が無事に生還したことから、当時ニューヨーク州知事であったデビッド・パターソンは、この件を34丁目の奇跡に因んで「ハドソン川の奇跡」(Miracle on the Hudson) と呼び称賛した[2][3]

Remove ads

事故当日のUSエアウェイズ1549便

Thumb
2001年にラガーディア空港で撮影された事故機
Thumb
事故時の塗装
Thumb
サレンバーガー機長(左)とスカイルズ副操縦士(右)
Remove ads

事故の経過

Thumb
飛行経路:同機は離陸後、北北西方向に向かい、その後反時計回りに旋回してハドソン川に沿って南下した。

離陸直後のエンジン停止

USエアウェイズ1549便は、午後3時26分にニューヨークのラガーディア空港を離陸直後、カナダガンの群れに遭遇した。両エンジンの同時バードストライクというレアケースによって両エンジンがフレームアウト(停止)し、飛行高度の維持が出来なくなった。
1549便はこの日シャーロットからの折り返し便として運行されており、操縦は副操縦士のジェフリー・スカイルズが担当していた。しかし、両エンジンの停止後、即座に機長のチェズレイ・サレンバーガー補助動力装置(APU)を起動させ、操縦を副操縦士から交代し、同時に空港管制に対し、状況の報告と非常事態を宣言した。副操縦士は以後事態を改善すべく、QRH(クイック・リファレンス・ハンドブック)によるエンジン再始動を着水直前まで実施した。

ハドソン川へ

当初、機長は空港への着陸を目指し、出発地のラガーディア空港か進行方向の延長上にあるテターボロ空港への着陸を目指していたが、高度と速度が低すぎるため空港への着陸は不可能と判断し、市街地への墜落を防ぐため、ハドソン川への緊急着水を宣言した。
低高度ではレーダーから消失してしまうため、空港管制は周囲の航空機へ1549便の目視チェックを要請し、観光ヘリ2機がこれに応じた。このヘリの乗客は、「映画の撮影かと思った。事故だと知らされて驚いた」と語っている[要出典]
その後ジョージ・ワシントン・ブリッジをギリギリで回避しながら高度を上げて減速し、着水間近に客室に対して「衝撃に備えて」とのみ伝えた。不時着まで数分の出来事のため、客室に詳細を伝える猶予はなかったが、アテンダントらは事情を察して客に最善の指示をした[5]

着水

トラブル発生から約3分後の午後3時31分頃、1549便はニューヨーク市マンハッタン区とニュージャージー州ホーボーケン市の間に流れるハドソン川へ、時速270km程で滑走路着陸時と同様の滑るような着水をした。
不時着水決定後に、高度を下げる経路を必要としたため旋回(進行方向反転)したが、偶然にも着水進入方向と川の流れが一致していた事で、ごく僅かであるが機体の衝撃は抑えられた。
また、機体の姿勢も水面に対し水平に近かったため、片側主翼着水による機体分解も避けられた[5]。スムーズな着水により機体損傷は尻餅による後部壁下部の一部だけで、乗客ら全員が迅速に機内から脱出シューター(着水時には救命いかだになる構造)及び両主翼に避難することが可能であった。

機体からの避難

それでも、事故当時は真冬であり、今季でも最低に近い気温-6℃・水温2℃という状況であった。無事着水して乗客が安堵したのもつかの間、損傷した後部から浸水が始まり、客室内にも浸水が始まった。乗客は機体沈没の恐怖に苛まれつつ、着水の衝撃で停電[要出典]し真っ暗の中を緊急脱出して、身を切るような寒さに晒されることとなった。
その中で、機長とアテンダントらは決められた手順に沿い行動した。機体後方のドアを使用せず機体前方へ誘導し、機内の毛布や救命胴衣を回収しつつ乗客へ配布し、逃げ遅れを防ぐべく機内を確認するなど不時着水という非常事態に冷静に対処した。特に機内の確認については機長が既に浸水が始まっていた機体後方まで機内に残っている乗客が居ないか2度確認に向かい、乗員乗客全員が脱出したのを確認してから機長も脱出した[6]

水没

事故機は着水から約1時間後に水没した。機体は17日深夜に引き上げられたが、第2エンジンが不時着後に脱落してしまったため、この捜索だけで3日間も掛かった[7]。機体は引き上げられてからしばらくはマンハッタン南部のバッテリー・パークに置かれた[8]
Remove ads

救助活動

Thumb
ハドソン川に浮かぶ機体。機体前部と尾翼部分が見える。アメリカ沿岸警備隊FDNYNYPD、フェリーに取り囲まれている。
3:31:02 pmの不時着水と救助:沿岸警備隊のビデオ。(長さ 8:07)
不時着水から20分後のビデオ。何隻もの船舶が救助に集まっている。

当該機の着水地点は機長の判断通りに水上タクシー観光船マンハッタン島とニュージャージーを結ぶ水上バスのマンハッタン側の発着場に近く、またニューヨーク市消防局アメリカ沿岸警備隊の警戒船や消防艇が停泊する港に近かった。

偶然付近を航行中の通勤フェリーを操舵していたヴィンセント=ロンバーティが着水4分20秒後に現場に到着して即座に救助にあたり、後を追うように水上タクシーと沿岸警備隊や消防の船が救助活動にあたった。機内の捜索のための潜水要員も警察からヘリコプターで向かい、空気ボンベを外して6mの高さからダイブしている。乗客に向けてライフジャケットを投げる様子も見られた[9]

また、ニュージャージー側からも救助の船が駆けつけた。ニューヨークの中心部であるマンハッタン島に近く、迅速に活動できる船舶が多かったことも、機体が沈んでしまう前に全乗員乗客の避難を完了させることにつながった。在ニューヨーク日本国総領事館は、当日中に搭乗していた邦人2人の生存を確認している[10]

事故調査

当初は航空機を狙ったテロだと考えられていたが、アメリカ合衆国国土安全保障省によってそれは否定された[11]

事故の原因は、エンジンに複数のカナダガンが吸い込まれたことである。このカナダガンは成長した大型(最低でも4kg)のものだった。これによりエンジン内部のコンプレッサー部分が致命的なダメージを受けたため、エンジンを再起動できなかった。ただし、回収されたフライト・データ・レコーダーの解析では、右エンジンはフレーム・アウトしたが左エンジンは完全にはフレーム・アウトせず、このため飛行速度が低かったもののウィンドミル状態[注釈 2]に近く、付随するオルタネーターが操縦等に必要な電力を賄える程度の回転数は保たれていた事が確認された[注釈 3]

エンジン停止後、機長は当時のチェックリスト内では優先度が低かったAPUの起動を即座に行った。次に操縦を交代し、副操縦士はQRH(クイック・リファレンス・ハンドブック)を開き、エンジン停止時の対処を始めたが、このチェックリストは機体が高度2万フィート以上にいる場合の想定で作られていたため、とても長く、全項目を完了させるには時間が足りなかった。また、パイロット達は、エンジンが再始動不可能なまでに致命的に損傷していたことを把握できていなかった。

緊急着水の項目は最後のページに書かれていたため、同機に搭載されていた浸水を防ぐための与圧用リリーフバルブを強制的に閉じるスイッチが押されることはなかった。一方、APUの起動が早かったことが功を奏し、飛行制御コンピューターへの電力は失われずに済んだ。これがパイロットの操作を補助したことにより失速を回避し、搭乗者の生存率を上げていた。

事故調査の過程で米国家運輸安全委員会が行ったフライトシミュレーションでは、エンジン停止後にすぐに空港へ引き返していた場合は、緊急着陸は可能だったことが判明している。しかし、「シミュレーション中にパイロットが行った即時の旋回は、鳥の衝突を認識して一連の行動を決定するために必要な時間遅延などの現実世界の考慮事項を反映または考慮していなかった。」とし、シミュレーションは非現実的なものとした。実際には、事故機のパイロットたちは訓練通りQRHを実施し、また管制官の指示を受けて空港への引き返しを始めた時にはエンジンが停止してから既に30〜40秒ほど経過していた。そこで、35秒の遅延時間を挿入し再度シミュレーションを実施したところ、これに参加したパイロットたち全員が空港到着前に機体を墜落させる結果となった。中には市街地に墜落したパターンもあり、地上の被害も出ていた可能性も示唆された。

以上のことから、委員会は最終的に、機長が正しい決定を行ったと判断した[12]

Remove ads

その後

Thumb
カロライナス航空博物館で2011年6月11日に開かれた、元乗員・元乗客ほか数百人を招待した移送完了パーティーでのサレンバーガー元[注釈 4]機長(中央で手前を向く白髪の人物)。
Thumb
パーティーでのスカイルズ副操縦士(左)とサレンバーガー元機長(右)。

サレンバーガー機長は様々な表彰を受け、事故の5日後に行われたオバマ大統領の就任式にも招待された。

  • 2009年10月1日、サレンバーガー機長は事故を起こした1549便と同じ路線で操縦士として復帰した。機長の復帰フライトでは事故当日と同じスカイルズが副操縦士を務め、事故機の乗客のうち4名が搭乗した。サレンバーガー機長が機内アナウンスで自己紹介を行うと、客室内では拍手と歓声がわき起こった。機体は事故の1年後にオークションにかけられた。
  • 2010年3月3日、サレンバーガー機長は30年間にわたる現役パイロットとしての乗務を終えた。ラストフライトも1549便と同じスカイルズ副操縦士とともに行った[13]
  • 2012年1月15日、元乗客に対して博物館で展示されている飛行機の機内が公開され、元乗客が自らが座っていた座席の今を確認することが出来た。なお、機体は今も一般公開されているが、機内については一般公開されていない。
  • 当時、アメリカは金融危機により重苦しい雰囲気が漂っていたが、この事故をうけ国民に希望をともした様子も見られた[4]
  • また、この事故から間もない2009年1月17日、羽田空港への着陸態勢に入った北九州空港発羽田行きスターフライヤー84便(同型機)が着陸進入中にバードストライクを受け左翼高揚力装置が破損する事故が発生している。当該機も定刻通りに着陸し、乗客乗員全員が無事であった[16]
Remove ads

CVRの記録

要約
視点

【】内は英語の原文で、#は不明瞭な発言を示す。交信などで便名が間違っているものもあるが、そのまま示してある。また、一部省略した部分もある[17]。日本語のサイトではカクタスをサボテンと表記するものもある[18]。なお、これらの記録は連邦航空局が2009年2月5日に発表したものがある[19]

さらに見る 時間, 発言者 ...
Remove ads

ギャラリー

Remove ads

関連作品

テレビ番組

映画

Remove ads

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads