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久野 収(くの おさむ、1910年〈明治43年〉6月10日 - 1999年〈平成11年〉2月9日)は、日本の哲学者、思想評論家。
1910年、大阪府堺市生まれ。奈良県立五條中学校(現:奈良県立五條高等学校)、第五高等学校を経て、1934年京都帝国大学文学部哲学科卒業[1]。京都帝国大学在学中の1933年、学生の立場で「滝川事件」に関わる。
大学卒業後は、中井正一らと共に1935年に雑誌『世界文化』にかかわる。1936年からは隔週刊新聞『土曜日』にかかわる。これら雑誌のようなマルクス主義とは一線を引いた、軍国主義反対のメディア刊行物の発行を行ってゆく。久野は一時期、中井正一宅に居候をしていて、先輩の中井を支えた。しかし、1937年に治安維持法違反で逮捕された(1939年に釈放)。1936年から1938年2月まで昭和高等商業学校(現:大阪経済大学)に勤務[2]。
戦後は、思想の科学研究会の主要メンバーとなり、60年安保反対闘争、ベトナムに平和を!市民連合などの思想的指導者として活動。学習院大学専任講師を長らく務め、その後教授になる。
風流夢譚事件が起きた際の思想の科学研究会の会長だった[3]。1962年には、有限会社「思想の科学社」の初代社長に就任。雑誌『思想の科学』編集長も務めた[4]。1993年には『週刊金曜日』の創刊にも関わり、死去するまで編集委員を務めた。
林房雄から山田宗睦が1965年に刊行した『危険な思想家』に「ここには彼の血がほとばしっている[5]」という「外科医的讃辞を書いている[5]」推薦文を寄せたことを批判されており[6]、竹内洋によると吉本隆明から山田や久野らは自分たちのネットワークを壊し孤立させようとしている学者を告発しているに過ぎないと批判されている[7][注釈 1]。
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