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埼玉県寄居町にある城跡 ウィキペディアから
鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にあった戦国時代の日本の城。構造は連郭式平山城。標高は最高点(三の曲輪)で122m。
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となったほか、甲斐・信濃からの侵攻による最前線として重要な役割を担っていた。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。 また跡地の周辺には殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺える。
関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつといわれる。1932年(昭和7年4月19日)に「鉢形城跡」(はちがたじょうあと)として国の史跡に指定された[1]。1984年(昭和59年)からは寄居町による保存事業が開始された。現在は鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)として整備され[2]、園内にはガイダンス施設である鉢形城歴史館が設置されている。
稀に見る頑強な要害だったとされ、武田信玄、上杉謙信、前田利家、上杉景勝らの数度の攻撃に耐え、小田原征伐では3万とも5万とも言われる北国軍に包囲されて1ヶ月に渡って籠城したのちに「開城」という形になった[3]。
城跡は西南旧折原村を大手口とし、東の旧鉢形村の搦手としている。本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪などがあり、西南部には侍屋敷や城下町の名前が伝えられており、寺院、神社があり、土塁、空堀も残存する。
城跡内には町天然記念物に指定されているバラ科サクラ属の植物の一種「エドヒガン」が生存している。このエドヒガンは、一旦伐採され2本幹の株元から12本の芽が成長した珍しいものである。
2009年(平成21年)現在で樹齢は約150年。高さは18m、枝張りは、東西23.5m/南北21.8mで、根回りは6.5mほどもある。
ソメイヨシノの片親である「エドヒガン」であるが、名前のとおり関東ではソメイヨシノよりやや早めの彼岸のころ満開となり、満開の時期には多くの写真家や画家が訪れる。
2018年、寄居町は鉢形城主の北条氏邦にちなんでこの樹の愛称を「氏邦桜」とした。
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