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オーストラリア出身のイギリス人女性歌手 (1948-2022) ウィキペディアから
オリビア・ニュートン=ジョン(Dame Olivia Newton-John[注釈 1]AC DBE、1948年9月26日 - 2022年8月8日)は、オーストラリア出身のイギリス人ポピュラー歌手。
1970年代から1980年代半ばにかけて多くのヒット曲を放ち、高い人気を博した。以後はレコーディングやコンサートの会社運営、自社ブランドのオーナーなど実業家としても活躍。乳がんを患ってからはがん治療の啓発活動家としても広く知られた[2]。
そうした活動が認められ、オーストラリア勲章、大英帝国勲章を受章し、日本でも旭日小綬章が授与されている[3]。公称身長は、167.5 cm(5フィート6インチ)。
代表曲に「愛の告白」「そよ風の誘惑」「愛のデュエット」「マジック」「ザナドゥ」「フィジカル」「ハート・アタック」「運命のいたずら」、日本では「ジョリーン」「カントリー・ロード」などが有名。
イングランド・ケンブリッジ生まれ。母方の祖父はアインシュタインとも親しかったドイツ出身のユダヤ系でノーベル賞受賞物理学者マックス・ボルン (Max Born)、ウェールズ人の父親はケンブリッジ大学のドイツ語教授であった。母方の曾祖母の父は法学者のルドルフ・フォン・イェーリングである。
5歳の時に父がオーストラリアの大学に移り、家族とともに移住。14歳の頃から学友とバンドを組んで、バーなどで歌い始めた。1965年、出演したオーディション番組で優勝。その懸賞で英国に戻り、1966年にデビューした。
クリフ・リチャードのバック・コーラスなど下積みの時期がしばらく続き、1970年にはトゥモローというバンドのヴォーカルになる。トゥモローはヴァル・ゲスト監督による映画『オリビア・ニュートン・ジョンのトゥモロー』が製作されるなどしたが、プロジェクトは失敗に終わり解散。
1971年にボブ・ディランがジョージ・ハリスンに提供した曲のカバー「イフ・ノット・フォー・ユー (If Not For You)」で再デビュー、この曲がヒットしたのをきっかけにスターの階段をのぼり、可愛らしいルックスとカントリー系の素朴な路線で着実に人気を集めた。1973年頃よりAOR、コンテンポラリー色を強め、1974年のシングル「愛の告白 (I Honestly Love You)」が全米1位を獲得、グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀女性歌唱賞に輝いた。同じく1974年にはユーロビジョン・ソング・コンテストに英国代表として出場し、「Long Live Love」を歌唱して4位を記録した。同年にはコンピレーション盤『イフ・ユー・ラヴ・ミー・レット・ミー・ノウ』が全米のアルバムチャートBillboard 200で初の首位を獲得。
1975年にアメリカに移住した後も2曲目の全米No.1「そよ風の誘惑 (Have You Never Been Mellow)」などのヒットが生まれた。
歌手としての人気が一度落ち着いていた1978年に女優としてミュージカル映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演。興行成績は大成功を収め、サントラからも「愛のデュエット」、アカデミー賞歌曲賞候補となった「愛すれど悲し」、「想い出のサマー・ナイツ」が連続ヒットし、押しも押されもせぬ世界的なスターとなる。
同年にはカントリーからポップ・ロックへ路線転換して発表されたアルバム『さよならは一度だけ』が全米7位のヒットとなり、アルバムからのリード・シングル「愛は魔術師」も全米3位を記録するなど歌手としても新たな局面を迎える。
1980年の映画『ザナドゥ』に主演。興行成績は不発に終わるも、サントラ曲「マジック」、ELOとの「ザナドゥ」、クリフ・リチャードとのデュエット「恋の予感」(日本ではシングルにならず「春風の誘惑 (Suspended in Time)」がシングル・カット)がヒット。アンディ・ギブとの「愛は微笑みの中に」など、AOR系のデュエット曲も発表。
1981年にはロック色を強め、アップテンポなディスコ調の「フィジカル」をリリース。全米でビルボード10週連続1位、キャッシュボックス8週連続1位、1982年度の年間チャート1位という爆発的ヒットを記録(エアプレイ中心のラジオ&レコーズでは「フィジカル」は1位にならず、ビルボード、キャッシュボックスで「フィジカル」に抑えられ2位どまりだったフォリナーの「ガール・ライク・ユー」が逆に1位を独走していた)。最終的にこの曲はビルボードにおいて、1980年代の全米チャートで最もヒットした曲となった。当時のフィットネスブームを意識し、ミュージックビデオではレオタード姿でエアロビクスを踊るという強烈なイメージ戦略があたり、オリビアのセールスはこの頃にピークを迎えた。しかし、その意味深な歌詞のせいもあって、保守色の強い州南部などの一部の放送局では、この曲の放送を自粛する動きも見られた。
「フィジカル」を収録したアルバム『虹色の扉』では収録曲全曲にミュージック・ビデオが作られるなど当時としては画期的な試みが行われた。
1982年には「フィジカル・ツアー」を開催して盛況を得るが、その後15年余りコンサート・ツアー活動を行わなくなる。
1983年には盟友パット・キャロルとオーストラリアからの輸入雑貨を取り扱うブティック「コアラ・ブルー」をオープンさせる。1992年に店は畳むものの、2000年代に入ってオリビアが手掛けるワインブランドとして復活。
1983年にトラボルタと再度共演した『セカンド・チャンス』のサントラ曲「運命のいたずら」、「ディスペレイト・タイムス」といったヒットを挟み、1985年のシングル「ソウル・キッス」がミディアム・ヒットに終わってセールスが一段落すると、アメリカ人の俳優であるマット・ラッタンジーとの結婚生活に入り、音楽界と若干の距離を置く。
1986年には娘クロエ・ラッタンジーを出産し、その後は環境保護活動などに取り組みはじめ、ユニセフ親善大使もつとめた。
1992年には乳がん闘病中と公表、以後はがん治療の啓発活動にも力を入れるようになった[2]。
1994年には全曲の作詞作曲を手掛けた『ガイア〜新たなる旅立ち〜』を発表して音楽界に復帰。アルバムはオーストラリアで7位を記録するヒットになった。1995年にマット・ラッタンジーと離婚。
1998年にはジョン・ファーナム、アンソニー・ウォーロウと「メイン・イベント」を開催。
1999年から再びコンサートツアーを開催するようになり、以後は2017年頃まで定期的にライブツアーを世界各地で行うようになった。
2000年のシドニーオリンピック開会式ではジョン・ファーナムとテーマ曲「Dare To Dream」を披露した。
2001年にはこれまでのイメージとは打って変わった役柄に挑戦した映画『ソーディッド・ライヴス』が公開、撮影は1999年に行われており、オリビアは蓮っ葉なレズビアンの女性を演じた。また髪型もベリーショートにしている。2008年にはテレビシリーズとして続編が製作された。
2003年には25年ぶりに来日公演を果たし、その後も2006年、2010年、2015年に来日公演を行った。
2008年、ジョン・イースターリングと再婚。
2011年、映画『ア・フュー・ベスト・メン』に出演しサウンドトラックも担当。サウンドトラックに収録されたポップ調の新曲「ウェイトレス」では久々にジョン・ファーラーとタッグを組んだ。
2012年、約35年ぶりに、ジョン・トラボルタと共演したデュエット・アルバム『ディス・クリスマス』をリリース[4]。自身が鬱病との闘病生活を送っている事を告白。
2014年から2016年にかけてラスベガスで常設公演「サマー・ナイツ」を開催。
2017年、がんが脊髄に転移していると公表[5]。
2021年秋に、日本政府より『日本国の音楽文化の発展及び友好親善に寄与した功』により旭日小綬章が授与された[3]。
2022年8月8日、長い闘病ののち南カリフォルニアの自宅にて死去(73歳没)[2][6]。翌年の2023年2月26日に故郷のメルボルンで国葬が行われた。
2023年には、生前最後にレコーディングしたドリー・パートンとのデュエット版「ジョリーン」を含む、これまでに発表したデュエット・ナンバーを集めたコンピレーション盤『ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス: ザ・デュエッツ・コレクション』が2枚続けてリリースされた。
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