トップQs
タイムライン
チャット
視点

2000年シドニーオリンピック

2000年にオーストラリアで行われた第27回夏季オリンピック ウィキペディアから

2000年シドニーオリンピック
Remove ads

2000年シドニーオリンピック(2000ねんシドニーオリンピック)は、2000年9月15日から10月1日までの17日間、オーストラリアシドニーで開催されたオリンピック競技大会シドニー五輪シドニー2000(Sydney 2000)などと呼称される。

概要 開催国・都市, 参加国・地域数 ...

2000年代最初かつ20世紀最後[1]夏季オリンピックにあたり、南半球での開催は1956年メルボルン大会以来44年ぶりとなった。また標準時子午線で開催される夏季オリンピックは、1980年モスクワ大会以来20年ぶりとなった。

Remove ads

大会開催までの経緯

シドニーオリンピックの開催は1993年9月23日に決定された。決選投票では、3回連続1位で優勢だった中国北京を僅差の45対43で破り、2000年代最初のオリンピックの開催地に選ばれた。これはアメリカ合衆国の人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの呼びかけが影響を与えたとされ、当時の中国世論の反米感情を刺激した[2]

さらに見る 都市, 国 ...

大会マスコット

  • オリー(Olly, ♂) - ワライカワセミがモチーフ。空を象徴。彼の社交的で正直、熱心で従順な性格は、オリンピックの国境を越えた友情精神を反映している。情報収集及やコミュニケーションが得意。名前の由来はオリンピック
  • シド(Syd, ♂) - カモノハシがモチーフ。エネルギー溢れ活気があり、リーダー的存在。水泳をこよなく愛す。自然保護に燃えるナチュラリストである。名前の由来はシドニー
  • ミリー(Millie, ♀) - ハリモグラがモチーフ。陸を象徴。彼女は、シドニーの希望と楽観主義の化身で、新テクノロジーの天才である。スポーツを通して、より平和な世界を築くのが夢。名前の由来はミレニアム

ハイライト

要約
視点

開会式

開会式は9月15日午後7時(日本時間・同5時)から行われた[注 1]

ストックホース (英語版) 騎馬隊によるパフォーマンスがオープニングを飾った後、当時13歳のニッキー・ウェブスター (英語版) 主演によるオーストラリアの歴史を描いたエンターテイメントショーが展開された。選手入場では、日本選手団は「虹色の鮮やかなマント」を着用して登場した。また、第1回南北首脳会談が実施されたばかりの韓国北朝鮮統一旗を掲げて合同入場行進を行ったほか、インドネシアから解放されたばかりの東ティモールの選手たちが五輪旗を掲げて入場した。

聖火リレーの最終点火者は先住民アボリジニ出身のキャシー・フリーマンが務め、民族融和を表現した[4]

大会ハイライト

この大会から、正式競技として加わったのが、トライアスロン競技だった。

柔道田村亮子が悲願の金メダルを獲得。他にも柔道では2大会連続金メダルの野村忠宏をはじめ、井上康生瀧本誠らが金メダルを獲得した。一方、篠原信一が決勝で審判の誤審により銀メダルになるというトラブルも起こった。

マラソンでは、高橋尚子が日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得(オリンピック新記録)。女子マラソン中継の平均視聴率が40%を超えるなど日本中で話題になり、国民栄誉賞が授与されることとなった。

野球においてプロの参加が認められ、アメリカ、韓国、オーストラリアなどがプロ主体のメンバーで参加した。日本はプロ側の足並みが揃わず、8球団が1名ずつ派遣するプロアマ混成チームであった。日本は1次リーグを勝ちあがったものの、準決勝でキューバに、3位決定戦で韓国にも敗れて4位となり、メダルを逃した。

サッカーフィリップ・トルシエがA代表監督を兼任する形で率い、メンバーの大半がA代表でプレーしていた上に各年代の大会で好成績を収めていたこともあって前評判も高く、南アフリカ・スロバキア・ブラジルと同組になったグループリーグで2勝1敗の2位で勝ち上がり、銅メダルを獲得した1968年メキシコシティーオリンピック以来32年ぶりの決勝トーナメント進出を果たした。アメリカとの準々決勝ではPK戦までもつれ、4人目の中田英寿が外してベスト8で敗退となった。なお、この試合の中継がすべての競技を通じて最高の視聴率(42.3%)を獲得した。

男子レスリンググレコローマンスタイル130kg級では、ルーロン・ガードナーが決勝でアレクサンドル・カレリンを破って金メダルを獲得した。カレリンは1987年から続いた国際大会無敗の記録が途絶え、オリンピック4連覇はならなかった。また、日本勢はグレコローマン69kg級で永田克彦が銀メダル。(不参加のモスクワ大会を除き)ヘルシンキ大会以降の連続メダル記録の面目は保った。

1956年のメルボルンオリンピックでは馬術が検疫期間の関係でスウェーデンストックホルムで開催されたため、全競技がオーストラリアで開催されたわけではなかった(参照)。しかし、シドニー大会では検疫技術の進歩等もあり2週間での検疫が可能になったことから、全ての競技がオーストラリア国内で開催された。全競技がオーストラリア(そして南半球)で開催されたのは、この大会が初めてとなった。

閉会式

IOCのサマランチ会長の任期中最後のオリンピックの閉会式では、五輪旗がアテネ市長に引き継がれ、最後に同会長が出身地の言語のスペイン語で「さようなら」と別れを告げた。地元のソプラノ歌手のイヴォンヌ・ケニーがオリンピック賛歌を独唱する中、オリンピック旗を降納し、開会式のショーで主演を務めたニッキー・ウェブスターが「We'll Be One」を歌い、聖火は少しずつ火を弱めていって、最後に、聖火の上空を低空通過したジェット機(F-111戦闘爆撃機)が後方投棄した燃料に点火して聖火が空に飛んでいくように見せる演出で納火した。ジェイソン・ギルキソンの振り付けでダンサーが社交ダンスを披露した。

なお、この大会は25000人にも及ぶボランティアが成功させた大会とも言われ、その活動は閉会式でサマランチ会長からも絶賛され、後日、ボランティアが主役となるパレードも行われた。その際、ボランティアにはシドニーの名誉市民の称号が与えられた。

閉会式で使われた楽曲

Remove ads

実施競技と日程表

さらに見る 競技名 / 日付 ...
Remove ads

各国・地域の獲得メダル数

さらに見る 順, 国・地域 ...

競技会場

Remove ads

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads