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アメリカの政治家 ウィキペディアから
ジョン・ロバート・ボルトン(英語: John Robert Bolton、1948年11月20日 - )は、アメリカ合衆国の法律家、外交官。アメリカ合衆国国際連合大使、国家安全保障問題担当大統領補佐官を歴任した。
ジョン・ボルトン John Bolton | |
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| |
生年月日 | 1948年11月20日(75歳) |
出生地 | アメリカ合衆国 メリーランド州ボルチモア |
出身校 |
イェール大学卒業 イェール大学イェール・ロー・スクール修了 |
前職 |
法律家 外交官 |
所属政党 | 共和党 |
称号 | 法務博士(JD) |
配偶者 | グレチェン・ボルトン |
子女 | ジェニファー・サラ・ボルトン |
第27代 国家安全保障問題担当大統領補佐官 | |
在任期間 | 2018年4月9日 - 2019年9月10日 |
大統領 | ドナルド・トランプ |
第25代 国連大使 | |
在任期間 | 2005年8月1日 - 2006年12月9日 |
大統領 | ジョージ・W・ブッシュ |
第13代 国務次官(軍備管理・国際安全保障担当) | |
在任期間 | 2001年5月11日 - 2005年7月31日 |
大統領 | ジョージ・W・ブッシュ |
在任期間 | 1989年5月5日 - 1993年1月19日 |
大統領 | ジョージ・H・W・ブッシュ |
1948年、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア生まれ。1964年アメリカ合衆国大統領選挙では当時高校生ながら共和党候補バリー・ゴールドウォーターの選挙運動に参加した。
1970年にイェール大学を最優等(summa cum laude)で卒業、1974年同大学イェール・ロー・スクール修了(法務博士 J.D.)。ロースクールでは後の最高裁判事のクラレンス・トーマスと同じクラスであり、またビル・クリントン、ヒラリー・クリントンも同時期に在学していた。
ワシントンの法律事務所勤務、保守派の大御所的存在ジェシー・ヘルムズ上院議員の補佐官を経て、1981年のレーガン政権の8年間、国際開発庁および司法省に勤務し、エドウィン・ミース司法長官と行動を共にした。
1989年から1993年まで、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ政権で国務次官補を務め、ジェイムズ・ベイカー国務長官の知遇を得た[1]。担当は対国際連合。クリントン政権期は保守系シンクタンクのアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所副所長に就任し、タカ派の立場からクリントン政権の外交政策に対して一貫して批判を続けた。1997年に設立された新保守主義的な外交政策を主張するアメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)にも参加した[2][3]。
2001年、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権によって国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)に任命され、北朝鮮との六者会合やイランの核開発問題などを担当したが、強硬なスタイルは多くの敵を作った。イランの外務省はボルトンを「無作法で非外交的」と非難した[4]。また北朝鮮を巡っては、時の総書記金正日を「圧政的な独裁者」と呼び、北朝鮮で生きることは「地獄の悪夢」などと発言したことから、北朝鮮はボルトンを「人間のクズ」(human scum)と激しく批判した。ボルトンの発言は非外交的だとして議会などから問題視された。また、開戦への慎重論が少なくなかった国務省内の対イラク開戦推進派としてイラク戦争への流れをつくり、ブッシュ政権を去った後もイラク戦争の正当性を主張している[5]。イラク戦争の推進やPNACへの参加などからネオコンの代表的な人物とみなされることが多いが、ボルトン自身は高校時代から生粋の保守派であるため、左翼からの転向者を意味する「ネオコン」と呼ばれることを嫌っている[6]。
2005年、駐国際連合アメリカ大使に推された。ここではヘンリー・キッシンジャー、ジェイムズ・ベイカー、ローレンス・イーグルバーガー、ジョージ・シュルツ、アレクサンダー・ヘイグの5人もの共和党政権における国務長官経験者が議会にボルトンを推薦する書簡を送るなど極めて異例の推薦を受けたが[1]、民主党がフィリバスターで対抗するなど強い反発を浴びた。ブッシュは反対を押し切って8月に任命を強行(休会任命の為未承認)。上院が承認しなかった為、2006年12月4日に辞任を表明し年内に任期満了で退任した。在任中は北朝鮮とイランの圧政を国務次官時代と同様一貫して激しく批判しており、両国に対する強硬路線を主導した。自身と米国政府が推薦した大韓民国出身の潘基文が国連事務総長に当選した際は歓迎している[7]。しかし、ブルー・チームと呼ばれる親台派でもあるため、潘基文が中華民国(台湾)の加盟を拒否した際はこれを批判した[8]。
2006年7月5日に北朝鮮が行ったテポドン2号発射及び、同年10月9日に強行された核実験の後は安倍晋三(当時内閣官房長官)や外務大臣(当時)の麻生太郎と共に北朝鮮への制裁路線を推進。10月15日には対北制裁決議の採択を実現する。バンコ・デルタ・アジアの北の不正資金凍結も断行した。ブッシュ政権が2期目に押し進めた対北融和路線も激しく批判。拉致被害者家族からの信頼も厚く、2007年11月に北朝鮮による拉致被害者家族連絡会・北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会が訪米した際、最初に面会した要人である。また、北朝鮮の脅威に対抗するために日本と韓国が核武装を検討することも主張していた[9]。
かねてから2016年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬したドナルド・トランプはボルトンの外交手腕を買って国務長官候補として検討しており[10]、政権移行チームでも名前が挙がっていた[11][12][13]。
2017年にボルトンはウォール・ストリート・ジャーナル紙で在沖米軍の台湾への一部移転を主張し[14]、2018年にはニューヨーク・タイムズ紙でイランへの爆撃やウォール・ストリート・ジャーナル紙で北朝鮮への先制攻撃も主張していた[15]。
2018年3月にトランプ大統領は自身のTwitterにおいてハーバート・マクマスター国家安全保障問題担当大統領補佐官を解任し、後任にボルトンを充てると表明した[16]。
2018年4月13日に起きたアメリカ・イギリス・フランスによるシリアのバッシャール・アサド政権への軍事攻撃では、国家安保担当補佐官に着任したばかりのボルトンがイランと北朝鮮への威嚇を狙って後押ししたとされる[17]。同年5月にはそのタカ派ぶりで北朝鮮から名指しで批判された[18]。同年9月にはイランへの攻撃計画準備も国防総省に指示したと報じられた[19]。
2019年2月に第2回米朝首脳会談が決裂した際はボルトンの介入によるものとする批判が韓国政府関係者から起き[20]、同年4月20日には北朝鮮の崔善姫外務次官はボルトンを「間抜け」と批判した[21]。また、同年5月27日、北朝鮮の外務省報道官は、短距離弾道ミサイルの発射実験を国連制裁決議違反として批判したボルトンに対して「欠陥人間」「一刻も早く消えるべきだ」との論評を行っている[22]。
2019年4月、マイアミで行われたピッグス湾事件関係者の集会で「今日、我々は万人の前で誇りをもってモンロー主義は健在であると宣言する」と演説した[23][24]。また、西半球から社会主義は駆逐せねばならないとしてキューバのミゲル・ディアス=カネル、ベネズエラのニコラス・マドゥロ、ニカラグアのダニエル・オルテガを「3人の愚かな社会主義者」と呼び、この3カ国に対する経済制裁を17日に発表した[24]。
2019年5月、ワシントンD.C.で1979年の米台断交後初の安全保障担当高官接触だった台湾国家安全会議秘書長の李大維との会談を行った[25][26]。
2019年6月20日、イスラム革命防衛隊による米軍無人偵察機の撃墜を受けてトランプ大統領による対イラン軍事行動決定を後押しするも攻撃10分前になって撤回されることとなった[27]。イランのモハンマド・ジャヴァード・ザリーフ外相からは同様にイランに敵対的なイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相やサウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマーン皇太子とともに「Bチーム」(類似するチームBとは無関係)と度々呼ばれている[28]。
2019年6月27日、ベネズエラのニコラス・マドゥロ政権の閣僚から同国に対するクーデター計画に関わっていたと名指しで非難された(クーデター計画は阻止されている)[29]。ボルトン自身は2022年7月12日にCNNに出演した際、ベネズエラの野党勢力によるクーデター計画に関与したが成功しなかったことを認めている[30]。
2019年7月22日、訪日。河野太郎外相や岩屋毅防衛相らとホルムズ海峡を航行する民間船舶の安全確保を図るための有志連合や日米同盟の役割、日韓関係などについて会談を行った[31]。続いて23日には韓国入りし、康京和外相、鄭義溶国家安保室長、鄭景斗国防相らとホルムズ海峡や朝鮮半島問題、米韓防衛費分担金特別協定改定などについて会談を行った。また、野党である自由韓国党の羅卿瑗も会談を行ったことを明かしている[32][33]。
2019年9月10日、国家安全保障問題担当大統領補佐官を解任された[34]。これについて、トランプは自分が辞任を進言したと主張しているが、ボルトンは自分の意思で辞任を届け出た、としており、対立がみられる。トランプは北朝鮮、イラン、ベネズエラなどをめぐって意見の対立があったと明かした[35]。同月19日、トランプは、後任にロバート・オブライエンを指名した[36]。
2019年7月にはトランプがウクライナへの軍事援助と引き換えに同国に政敵の調査を持ち掛けたという疑惑が持ち上がり、同年中にトランプを弾劾裁判にかける事態へと発展した(ドナルド・トランプとウクライナ論争を参照)。2020年1月6日、ボルトンは、議会上院から召喚状が出されれば弾劾裁判で証言を応じることを表明したが[37]、ボルトンなどの証人招致を求める動議は共和党の反対多数で否決されたため実現せず[38]、そのままトランプには無罪評決が下った[39]。
トランプ政権からの離脱後、2019年から2020年にかけて政権の内情を暴露する回顧録を執筆し、2020年6月23日に出版した。題名は『The Room Where It Happened』、日本語訳版は2020年10月に出版[40]された。(下記参照)
大統領に直接助言を行う補佐官がその大統領の在任中に回顧録を出版することは異例であり、その内容の衝撃から大きな話題となった[40][41]。
出版前から、すでに次のような内容が明かされていた。
出版前にボルトンが草稿をホワイトハウスに提出したところ[45]、2020年1月にホワイトハウス側は「大量の機密情報が記載されているため、削除しない限り出版を認めない」[50]と通告した。1月29日、大統領トランプは「(ボルトンは退任後に)すぐさま、不快で虚偽の本を執筆している。すべて安全保障上の機密情報だ。誰がこんなことをするだろうか」と非難した。
その後も回顧録の出版準備は進み、同年6月23日に出版が決定したが、6月16日にアメリカ司法省が「機密が含まれている」としてワシントン連邦地方裁判所に出版差し止めを申し立てた[46]。6月18日、国務長官のマイク・ポンペオは、「内容を読んでいない」としつつも報道を見た限りで「数多くの嘘を拡散している」と批判し、「ジョン・ボルトン氏の果たす最後の公的な役割が裏切り者の行いに他ならないという事実は、悲しくもあり危険でもある。国民との不可侵の信頼に背き、結果的に米国を傷つけた」と激しく非難した[51]。
2020年6月20日、ワシントン連邦地裁は「政府のチェックを得ていないプロセスであり、国家に損害を与える可能性がある」としながらも、「本の内容は既にリークや報道されている内容であり、出版差止めした場合でも与える影響がない」として、出版差止めを棄却した[52][53]。
回顧録は6月23日に出版され、上述のような内容が世界的に話題となった。
2022年5月、ロシアによるウクライナ侵攻の勃発を受けて、ボルトンは朝日新聞社の取材に答え、トランプ政権を含む米国の対ロシア政策について次のように発言した[54]。
また、2022年8月にも朝日新聞社の取材に答え、改めて対ロシア政策に関するトランプ政権の内情について次のように回顧した[55]。
2022年8月10日、アメリカ司法省はイラン革命防衛隊員のシャフラム・プルサフィを訴追したと発表した[56]。同省によれば、プルサフィは2020年1月に米軍が行ったバグダード国際空港攻撃事件への報復として、ボルトンの暗殺を計画したと疑われている[56]。容疑者の身柄は拘束されておらず、連邦捜査局(FBI)が指名手配している[56]。
また、トランプ前政権において国務省報道官であったモーガン・オルタガスによれば、「次の標的は国務長官ポンペオであった」という[56]。
ボルトンはCNNの取材に対し、「他にも多くの米国人がこの政権のターゲットになっているというのはかなり正しいだろう」と述べた[56]。
一方、イラン政府はこれを否定し、イラン外務省報道官は「根拠のない主張を展開している。イラン国民へのいかなる措置にも強く警告する」と米国を非難した[57]。
首都に隣接するメリーランド州ベセスダに居住する。妻と娘がいる。プロテスタントのルター派信者。
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