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東宝による特撮カラー映画 ウィキペディアから
『世界大戦争』(せかいだいせんそう)は、1961年(昭和36年)10月8日に公開された、東宝制作の特撮SF映画[8][10]。監督は松林宗恵。カラー、東宝スコープ、多元磁気立体音響[出典 4][注釈 2]。
「連邦国」と「同盟国」の2大勢力間で勃発した世界最終戦争を、市井に生きる人々の姿を通して描く反戦映画である[出典 7]。また、製作当時は劇場公開直前に起きたベルリンの壁構築や翌年のキューバ危機に代表されるように東西冷戦の危機感が色濃く出ていた世相に合わせ、それを反映して第三次世界大戦を意識して制作された人間ドラマでもある[出典 8]。『私は貝になりたい』のテレビドラマ版と映画版の両方に主演したフランキー堺が、理不尽な運命に翻弄される平凡な小市民を熱演している[18]。
近代兵器のようなミニチュアを用いた特撮シーンの完成度も見どころの一つである[20]。兵器や軍服のデザインや国章から、連邦国は資本主義陣営、同盟国は社会主義陣営を意識して描かれているが、劇中の台詞には両陣営とも英語が用いられている。準備稿の段階では、アメリカやソビエトといった実在の国名で書かれていた[21]。
従来の近未来SFでは、希望的な未来を描いていたのに対し、本作品ではそれらを否定する結末となっているのが特徴である[10]。僧侶でもある監督の松林は、本作品の根底を流れるテーマとして、仏教の「無常」観を挙げている[22]。
東宝プロデューサーの田中友幸は、1980年代のインタビューで現実の兵器類が本作品中のものに近づいていることに恐ろしさを感じていることを語っていた[23]。
2002年の松林へのインタビューによれば、特技監督の円谷英二は本作品を「誇って良い作品」として最も気に入っていたほか、松林も「代表作である」と明言していたという[22][注釈 3]。また、本作品の試写終了直後、円谷は同じ人間観や人生感を持つ松林に感謝していたほか、松林も2002年のインタビューにて「(円谷とは)一緒に良い仕事をさせてもらった」と感激していたという[22]。
戦後16年が経過し、急速な復興を遂げた日本。主人公・田村茂吉は家族の幸せを願いながら、東京にて外国人記者の集まるプレスセンターの運転手として日々働いていた[9][17]。そんな中、田村の長女・冴子は下宿中の青年航海士・高野と恋仲になり、笠置丸での長い航海を終えて帰還した彼と久々の再会を喜ぶ。冴子と高野は結婚の決意を茂吉に語り、驚く彼に反して妻のお由は賛同する。茂吉もついには冴子と高野の関係を認め、2人は結ばれることになる[9][17]。
一方、世界は連邦国と同盟国の2大陣営に分かれ、両陣営は互いに核兵器を持ってにらみ合っていた。まもなく、北大西洋にて行われた同盟国陣営の軍事演習エリアへ連邦国陣営の潜水艦が侵入したことをきっかけに、両者の関係は緊迫する[17]。田村が担当する記者・ワトキンスも、その状況を危惧し始めた。日本政府も国民の間に動揺が広がりつつあることを考慮し、両国の関係改善の道を探ろうとする。だが、緊迫した朝鮮半島・北緯38度線の情勢をワトキンスが取材に向かったその数日後、小型ながらも実戦で核兵器が使われるという事態が発生し、連邦国と同盟国の双方で発射装置のボタンが押されれば核弾頭を搭載した弾道ミサイルが直ちに発射される一触即発の状況となる[9][17]。
日本では総理が病身を押して公務を行い、両国の緊張をこれ以上高めまいと懸命の努力を行う[17]。現場にいる軍人たちも最悪の事態だけは避けたいという思いを胸に、発射装置の故障や想定外の事故による偶発的なミサイル発射を阻止していた[17]。やがて、南北朝鮮間で停戦協定が結ばれたことによって緊張が解け始めるが、北極海上にて発生した軍用機同士の戦闘をきっかけに再び関係が悪化し、世界各地にて武力衝突が発生する[9][17]。日本政府は核兵器の使用だけはあってはならないと全世界に訴え続けるが効果は無く、日本でもついに核ミサイルへの警戒が始まり、人々の不安は頂点に達する[17]。
大都市から避難しようとする人々でターミナル駅は大混乱となり、街は無人と化す[9]。しかし、田村一家は自宅に残り、最後の
その夜、東京は核の閃光に包まれて壊滅し、溶岩が流れる火の海と化した廃墟には黒い雨が降り注ぐ[9][17]。また、ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワなども、東京と同様に壊滅する。翌朝、洋上の高野たちは自分たちにも残留放射能による死が訪れることを覚悟のうえで、キノコ雲の立ち上った東京へ帰ることを決意するのだった[9][17]。
かつて東京だった場所に生じた巨大なクレーターを背に、以下のメッセージを大写しにして物語は幕を閉じる。
「この物語は すべて 架空のものであるが 明日起る 現実かも 知れない」「しかし それを 押しとめよう! われら すべてが 手をつないで…」「まだ それが 起らない中(うち)に」
東宝プロデューサーの田中友幸は、当時の世界情勢から第三次世界大戦を題材とした映画の製作を構想し、橋本忍による脚本で製作準備を行なっていた[37]。しかし、東映でも同様の題材を扱った映画『第三次世界大戦 四十一時間の恐怖』を製作していることが判明したため、東宝側も監督に堀川弘通を立てて『第三次世界大戦 東京最後の日』の製作を急ぎ決定し、両社は競い合う形で製作を進めていった[38][37]。マスコミもこの競合を報道するが、東宝側の脚本が先に完成していた東映側との類似を指摘され、東宝側は脚本の改稿を余儀なくされるも十分な解消には至らず、製作の中止を決定した[37]。その後、内容を一新して製作が再開され、本作品の完成に至った[18]。脚本の改訂は12回におよんだ[14]。
ストーリーボードは、小松崎茂が『ガス人間第一号』に続いて手掛けた[39]。絵コンテには、円谷からの誘いでうしおそうじも参加した[17]。
東京、ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワが核ミサイルによって破壊されるクライマックスシーンは、天地を逆にしたミニチュアの下から圧縮空気を吹き出させる方法で撮影された[出典 18]。このシーンでのミニチュアはウエハースで作られており[出典 19]、ネズミがかじるため、管理に苦労したという[出典 20][注釈 14]。また、雨の日には湿気てしまったという[45]。
このシーンの映像は完成度が高く、その後も『ノストラダムスの大予言』などの劇場用作品のほか、円谷プロ制作の特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』の最終話「史上最大の侵略(後編)」[注釈 15]など、さまざまな作品に流用された。また、上記のシーンを含めて劇中に登場するクレムリンのミニチュアは、『海底軍艦』などの別作品にも流用された。特技監督の円谷英二も、本作品を自身の代表作の一つに挙げている[19]。
東京が核爆発によって溶解するシーンは、『空の大怪獣 ラドン』や『日本誕生』などの噴火シーンと同様に、溶鉄を使用している[出典 22]。このシーンのミニチュアは燃えやすい炭団で作られており、撮影は千葉県の製鉄会社の敷地内で行われた[出典 23]。上部だけ残る国会議事堂は、ミニチュアが偶然燃え残ったものであった[46]。同シーンで撮影を担当した有川貞昌は、離れた場所に櫓を組んで安全帯で自身を固定していたが、灼熱によるカメラやフィルムへの危険を感じて退避しようとしたところ、アングルが熱くなって触ることができずパニック状態となり、どうにか櫓から飛び降りたあとはしばらく放心状態であったという[46]。後年のインタビューで有川は、「ノロの怖さを甘く見ていた」と述懐している[46]。
核爆発によるキノコ雲は、水槽に落とした絵の具を逆さに撮影している[出典 24]。海上の笠置丸が目撃するキノコ雲は、ホリゾントに描かれた背景である[40][7]。
廃墟から上る煙には、従来の硫酸を溶かしたアンモニアではなく四塩化チタンを用いているが、特技監督の円谷英二には無断であったため、特殊効果の渡辺忠昭は普段と違う状態に気づいた円谷から叱責されたという[47]。その後、戦闘機の噴射炎で四塩化チタンを用いた際は表現に成功し、それ以降は定番の手法となっていった[47]。
東京を襲う洪水のシーンは、『日本誕生』と同じくプールに沈めた鉄板をトラックで引っ張るという手法が用いられたが、本番では波が大きくなりすぎてしまい、スタジオが水浸しになってしまったという[46]。
黒い雨の描写では、ドブのような汚い水を降らせているが、照明が汚れるなどしたため、有川は助監督の浅井正勝に事前に相談するよう苦言を呈したという[48]。
本作品ではミニチュアの操演技術が高く評価されている[48][7]。円谷は、アメリカを訪れた際に本物を使っていると錯覚した人物から「飛行機を何機飛ばしたんだ」と質問されたという[48]。
有料配信はAmazon Prime[52]やiTunes[53]で行われている。
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