圓照寺
奈良市にある尼寺 ウィキペディアから
奈良市にある尼寺 ウィキペディアから
圓照寺(えんしょうじ、円照寺)は、奈良市山町にある臨済宗妙心寺派の尼寺。山号は普門山(ふもんざん)。文智女王が創立。斑鳩の中宮寺、佐保路の法華寺と共に大和三門跡と呼ばれる門跡寺院である。華道の「山村御流」の家元でもある[1]。別名、山村御殿[1](山村御所)。
参道と山門、拝観は不可 | |
所在地 | 奈良県奈良市山町1312 |
位置 | 北緯34度38分37.3秒 東経135度50分44.1秒 |
山号 | 普門山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 如意輪観音 |
創建年 | 寛永18年(1641年) |
開基 | 大通文智 |
別称 | 山村御殿、山村御所 |
法人番号 | 2150005000053 |
三島由紀夫の小説『豊饒の海』に再三登場する「月修寺」は、圓照寺をモデルに描かれている[2]。非公開寺院のため拝観は不可となっているが[1]、2010年11月15日から19日までの間に平城遷都1300年記念事業の一環として特別拝観が実施され、抽選で選ばれた1000人を対象に本堂と奥御殿庭園、本尊の木造如意輪観音像が公開された[3]。
後水尾天皇の第1皇女であった文智女王(幼名・梅宮)は、寛永17年(1640年)、22歳で一糸文守(仏頂国師)を師として出家し、大通文智尼となった。大通文智は翌寛永18年(1641年)、京都の修学院の地に草庵を結んだ。これが圓照寺の始まりである[4]。
明暦元年(1655年)、後水尾による修学院の山荘(修学院離宮)の造営にともなって圓照寺は移転を迫られ、翌明暦2年(1656年)、継母である中宮東福門院(徳川秀忠の娘)の助力により、大和国添上郡八嶋の地(奈良市八島町)に移り、八嶋御所と称した。さらに、東福門院の申請により、幕府から200石(のちに300石に加増)の寄進を得て、寛文9年(1669年)、八嶋の近くの山村(奈良市山町)の現在地に再度移転した。以後も歴代住持として皇女が入寺し、山村御所と呼ばれた[4]。
寺の東方の墓地には後水尾天皇の皇女、霊元天皇の皇女らの墓がある。
立入りができるのは参道のみで、山門から先は非公開である。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.