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奇術 (きじゅつ)は、人間の錯覚や思い込みを利用し、実際には合理的な原理を用いてあたかも「実現不可能なこと」が起きているかのように見せかける芸能。通常、観客に見せることを前提としてそのための発展を遂げてきたものをいう。日本では、手品(てじな)などとも言い、古くは手妻(てづま)、品玉(しなだま)とも呼ばれた。マジック(英: magic)と言う場合もある。また、奇術を行う者を奇術師(きじゅつし)、手品師(てじなし)、またマジシャンとも呼ぶ。
マジックの語源は、香木を火に捧げる祭儀や夢占・占星術を司る古代ペルシアの祭司階級であるマゴスから派生したギリシア語「マゲイア」である。古代ギリシア・ローマ世界において、マゲイアという言葉は本来、マゴスの業や知識を指す語であるが、呪術、まじない、奇術、さらにはイカサマやペテンといった悪い意味でも使われるようになった。マジック(魔術)という語が呪術と奇術というふたつの意味を併せもつのは、彼らが行った各種の奇跡や魔術が現代的意味での奇術に相当することに由来するという説がある。
奇術の歴史は古く、演目の1つ「カップ・アンド・ボール en:Cups and balls」は古代エジプトのベニハッサン村の4000年以上前のものと推測されている洞窟壁画にそれらしきものが描かれている[1]。ただし、これはカップ・アンド・ボールを演じているところではなくパンを焼いているところだと考える学者もいる[2]。紀元前1700年頃のものと考えられている書物(ウェストカー・パピルス)には当時のファラオの前で演じた奇術師の様子が詳細に描かれている[3]。ギリシア・ローマ時代には奇術師を「小石を使うもの」という意味の言葉calculariusや「カップを使うもの」という意味の言葉acetabulariiで呼び、これは「カップとボール」(ラテン語acetabula et calculi)を表している[4]。この時代の文書には、奇術師に関連する逸話や見聞録が数多く存在する。
魔術と奇術は、ある意味では非常に近しい関係にある。英語のmagicがその両方を指すように、そもそも奇術は魔術を実現するために発展してきたとも考えられる。
奇術は古代、国家形成以前の時代から行われていたとされ、これは古代の集団においてそれを統率するリーダー的役割の人間は、不思議な力があることが大きな影響力を持っていた(日本では卑弥呼など)ことに由来する。リーダーは、民衆とは違ったことができるということをアピールすることで権力を得たともいわれるからである。このような奇術を「原始奇術」、「ビザー・マジック」とも言い、古代社会では大きな影響力を持つことに成功したと見られる。
中世から近世にかけて西ヨーロッパにおいても同様で、当時奇術は権力者にとっては自身の権力を大きく見せるための手段であり、同時に魔女狩りによって不都合な人物を消すための方便でもあった[5]。
こうした権力者の虚構を暴き、同時に魔女狩りから無実の人々を救うため[5]、1584年にイギリスの地方地主レジナルド・スコットが、『妖術の開示』をロンドンで出版[6]。この中には奇術の解説も含まれており、世界最古の奇術解説書となっている。しかし権力者にとって不都合な書物であったためか、英国国王ジェームス一世は自身が王位につくと、この本を異端の書として全て燃やすように指示した[5]。このためこの本の原書はほとんど残っていない[5]。(その他の有名な初期の解説書といえば「ホーカス・ポーカス・ジュニア」など)。
大道芸や食卓芸として発展してきた欧米では、魔女裁判以降に奇術は再興、各国の王家専属の宮廷奇術師らも登場した。18世紀後半にはマリア・テレジアのために手品装置としてチェスを指す人形「トルコ人」(実際には中に人が隠れて操作していた)が登場し、ステージマジック、イリュージョンのさきがけとなった[7]。1845年のロベール・ウーダンの登場から奇術は近代芸能へと変化を遂げる。それまでの「黒魔術的な怪しい衣装で暗い照明の下、不気味な演出で」行われていた奇術を、ウーダンは「燕尾服に明るい照明、スマートな演出」を行うことで完全なエンターテイメントへ変えた最初の人物である。このことから、ウーダンは「近代奇術の父」と呼ばれる。この時代の奇術師にはドコルタ、ストダー大佐らがいる。また、ステージ奇術師と同様に、サーカスに同行する奇術師(旅回り)や街頭奇術師は数多く存在していた。
19世紀後半から20世紀初頭まで、ボードヴィルやナイトクラブでのショー、ステージショーが全盛を極めた。当時はこういった分野が最も隆盛を極めた時代であり、1950年代に映画産業が発達するまでの代表的な演目だった。この時代まで、プロは相当数いたとされるが趣味としているのは一部の裕福な家庭の知識人だけであった。この時代に活躍したマジシャンとしては、ハリー・フーディーニやハワード・サーストン、ハリー・ケラーら。しかし、1800年代後半から多くの優れた奇術解説書が出版され、奇術は趣味として浸透し始める。多くはアマチュアの著作であることから「19世紀はプロの時代、20世紀はアマチュアの時代」と言われることがある(代表的なものはホフマン教授(プロフェッサー・ホフマン)著「モダン・マジック」など)。また「GENII」や「Magic」などといった奇術専門雑誌が発行されている。20世紀に入ってから、映画人気の影響や1929年の世界恐慌などによって、イリュージョンなどの大舞台の興行は大打撃を受け、次第に奇術師の活躍の場はナイトクラブなどに移行した[8][9]。舞台が人気を失う中で、ラジオ番組やテレビ番組などへの登場で活躍の場を見つけ出した奇術師もいた。
1930年代以降は、大舞台に代わって身近なものを使ってみせるクロースアップ・マジックがよく演じられるようになり、クロースアップ系の雑誌なども発行されるようになった[10]。ダイ・バーノンをはじめとしてクロースアップの分野で多大な功績を残すマジシャンが多く登場している。
現在では、奇術の演技形態だけでなく、タネに科学的なものも加わり進化は続いている。また身近で見せる奇術から大規模なイリュージョンまでさまざまな演技形態でプロが存在し、ショービジネス界で大成功を収めている奇術師も多く存在する(デビッド・カッパーフィールド、ランス・バートンなど)。
ギネス記録へ認定されるマジシャンとしては、デビッド・カッパーフィールドやジョナサン・ペンドラゴン、リッキー・ジェイ、山上兄弟が挙げられる。
「マジック界のオリンピック」とも形容されるFISM(Fédération Internationale des Sociétés Magiques)やI.B.M.(International Brotherhood of Magicians)、SAM(Society of American Magicians)といった世界的規模の会が存在している。コンベンション(大会)と呼ばれる催し物を開催し、全世界に奇術愛好家のネットワークが存在。プロからアマチュアまで垣根のない交流が可能といえる。
日本における奇術の歴史は、奈良時代に唐より仏教とともに伝来した「散楽」が始まりとされ、狂言や能などと同じ源流を持っている。
大道芸として発展し、「放下」「呪術」「幻術」と呼ばれたが、戦国時代には芸として完成している。ただし、室町時代以降はキリシタン・バテレンの妖術と非難され、一時禁止された。陰陽師(安倍晴明など)の術も奇術の原理を使用していたとされる[11]。戦国時代の果心居士などが有名。
江戸時代頃から手妻(てづま)、品玉と呼ばれ、柳川一蝶斎や塩屋長次郎らが舞台で活躍した。特に塩屋長次郎は世界に先駆けて「ブラック・アート」(イリュージョンを参照)を完成させた人物である[12]。この時代に完成した日本奇術(和妻)の中でも水芸や胡蝶の舞、ヒョコといった演目は傑作となっている。江戸時代以降は奇術解説書が多く出版されるようになり、日本最古のものは「神仙戯術」(元禄10年、1697年)であり、これは明の文人画の大家、陳眉公の翻訳である[13]。江戸時代、奇術は知的な座敷芸として認知されていた。趣味人や知識人が著し、当時のプロが演じていた大掛かりなものから、座敷で演じるものまでが解説され、当時の日本人は既にエンターテイメントとして奇術を楽しんでいたことがわかる。「キリシタン・バテレンの妖術」という評判も、むしろ宣伝文句として使われた場合があった。江戸時代の著名な奇術解説書としては、「座敷芸比翼品玉」「秘事百撰」など。幕末から明治維新に掛けて来日した外国人は、手妻(特に胡蝶の舞)に驚嘆したという記録が残っている[14]。
この時代には歌舞伎や人形浄瑠璃、からくり人形の舞台も大変な人気で、奇術的な原理を使用するものも多く、密接な関係を保っていた[15]。
『和漢三才図会』(上 寺島良安 東京美術)の巻第十六「芸能」の記述では、「幻戯」と表記して、「めくらまし」と読ませ、「今云う魔法」とも記述され、前漢にまで起源を求めており、絵図には足に火がついた状態(原文では「火を履き」)で刀を口に入れる外国人が描かれている。
明治時代に、ヨーロッパ巡業した松旭斎天一やその一門などを始めとした数多くの奇術師が「西洋奇術」を披露し、人気を博した。このために、世界的に見てもユニークな手妻は徐々に勢いを無くし、現在では限られた奇術師(手妻師)しか演じなくなっている。現在の日本で見られる奇術のほとんどは欧米で発達したものであるため、日本古来の手妻(てづま)、品玉(しなだま)を指す場合に、特に西洋奇術の洋妻(ようづま)に対し和妻(わづま)という呼び方がされることもある。
1900年代初期から、日本奇術界は欧米のコピーに傾倒し始める。海外の知識が日本に流入するようになってから、奇術は手妻以上に演芸として確立する。
戦前は、松旭斎天一の弟子「魔術の女王」松旭斎天勝など松旭斎一門や様々な流派、または師弟関係の無い独学のマジシャンが興行を成功させた。また、アマチュアの研究家だった坂本種芳などが活躍し、同氏は1935年に海外の著名な賞であるスフィンクス賞を受けるなどしている。この時期に、様々な同好会が設立された。奇術のスタイルとしては、ステージマジックが主流であった。しかし、第二次世界大戦が長引くにつれ情報は乏しくなって行く。
戦後になると、小野坂東や高木重朗の尽力で欧米の奇術が再び日本へ紹介され、大きな影響を与えた[16]。この頃は、クロースアップ・マジックに関連する情報が多く、この分野が急激に発展した。また、プロマジシャン以外にも、アマチュアながらも優秀な愛好家が増加。沢浩や厚川昌男といったアマチュアマジシャンが世界を驚嘆させる奇術を創案し、その他多くの優秀な人材が生まれている。
日本では、趣味人松田昇太郎が、松旭斎天一のサムタイなどのクロースアップ・マジックを継承しており、戦後、多くの進駐軍将校たちに披露し、また、彼らから米国の先進的なネタや資料を得て改良、テンヨーの商品開発に協力、月刊『奇術研究』に寄稿し、アマチュア手品の普及に努めた。
世界の舞台で活躍するマジシャンも多く、「マジック界のオリンピック」とよばれるFISM世界大会にも入賞するケースが増えている。世界で活躍したマジシャンとしては、石田天海や島田晴夫、峯村健二らがいる。
十数年おきにマジックブームが到来しており、1970年代に初代・引田天功などがステージマジックで成功し、1990年代には超魔術ブーム、2000年代にはMr.マリックらクロースアップ・マジックがブームを巻き起こした。
現在では日本の奇術愛好家人口も増加し、全国各地に同好会が存在する。組織では日本奇術協会、SJM(Society of Japanese Magicians)、日本クロースアップマジシャンズ協会(Japan Close-Up Magicians's Association/JCMA)、ICM、SAMジャパンなどが存在している。
多くの研究家が自らの分類を発表している。
およそ以下の3つに分けられるが、2つ以上が組み合わさって成立している奇術もあり、また同一の奇術が複数の異なる方法によって実現できることもある。
タネ明かしは奇術の世界では現在でも重大なタブーと見なされる。ただし実用新案の期限切れや守秘義務の無いもの、市販の手品グッズを使ったもの、一般の書店で購入できるタネ本に紹介されているもの、誰でも簡単に見破れるものなどについては、タネ明かしをすることがある。科学マジックについては科学教育を兼ねていることが多く性質上タネ明かしが普通に行われる。また、最初の奇術の解説書「妖術の開示」も、奇術がごく普通の人間でも実践できることを示し、魔女狩りから奇術師を救う目的があった。ギャグとしてわざとタネが簡単に見破れる奇術を行うマジシャンもいる(ナポレオンズ、ゼンジー北京、カルロス西尾、ショパン猪狩(東京コミックショウ)、マギー一門など)。しかし奇術のタネ明かしは基本的には行ってはいけない。
タネ明かしという言葉が一般化しているのは日本だけであり、ある意味で文化とも言える。最近ではこのタネ明かし文化を問題視する声も少なくない。日本ではタネは見破るものという文化があるために悪気はなくともマジックを妨害してしまう人もいるが、海外では一般人にはタネ明かしの概念がほとんどないためマジシャンが起こした奇跡に純粋に喜ぶ人が多い。日本のマジシャンが技を誇張するのに対し海外のマジシャンに魔法使いを演じる人が多いのはそのためと言われている。
マジシャンの演技中、たとえタネを知っていたとしても他の客にタネを暴露するのは重大なマナー違反である。
奇術を成立させるために使用される手段の一つ。例えば奇術師がひそかに、カードを特定の場所にコントロールしたり、手に隠し持ったりする方法。シークレット・ムーブ。
観客に気づかれないように行わなければならないシークレット・ムーブとは対照的に、演者が技術をアピールするためにトランプなどを曲芸のように操る技術をフラリッシュという。
日本には奇術を演じるときの心構えを示すサーストンの三原則という格言がある。
の3つを説明しているが、必ずしもこれが全てという訳ではなく、何度も同じ現象を繰り返して見せることにより不思議さを増す現象もある。
なお、サーストンとはアメリカのマジシャンであるハワード・サーストンのことであるが、この格言はほとんど日本でしか流通しておらず世界では一般的になっていない。故に種明かしという言葉が一般化しているのは日本だけである。
今の形での三原則が初めて書かれたのはTAMCの会報 vol.3, no.2(昭和12年12月)のことで坂本種芳が天城勝彦のペンネームで紹介したものである。ちなみに『三原則』に相当する注意書きが書かれたサーストンの署名入りチラシが1922年に印刷されたことが1997年に判明している。また、3つの原則のうち1と2に関してはホフマンの『モダン・マジック』(1876年)のイントロダクションで紹介されている[19]。
奇術は、さまざまな著名人と関係が深い場合がある。中にはプロさながらの功績、テクニック、実力を持つ人物もあり、以下のような著名人が趣味としている。
奇術を題材にした小説や映画などは数多く製作されている。特に推理小説の分野では泡坂妻夫やクレイトン・ロースン、ジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)のように作家が奇術師の場合もある。
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