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江戸時代中期の旗本。従五位下・筑後守。池田政晴の四男。井原池田家(池田修理家)6代 ウィキペディアから
池田 長恵(いけだ ながしげ / ながよし)は、江戸時代中期の旗本。通称は修理。官位は従五位下・筑後守。
生坂藩主池田政晴の四男として誕生した。幼名は源之助。旗本池田政倫の養子となる。
安永4年(1775年)11月8日、養父の遺領を継ぎ、閏12月22日、中奥番士となった。天明元年(1781年)10月1日、小十人頭となり、翌天明2年(1782年)12月12日、目付となった。
天明7年(1787年)10月2日に京都町奉行に抜擢され、11月1日に従五位下・筑後守に叙任している。寛政元年(1789年)9月7日、江戸南町奉行に異動。寛政7年(1795年)6月28日、大目付に就任した。
豪胆な性格であり、苛烈、強引な仕置も多く、職務において失態を犯して将軍への拝謁を禁止されたことも幾度かあったが、陰湿さのない単純明快な人物であり、煩瑣な案件にも果敢に踏み込んで大胆な措置を下すため、一定以上の人望があったという。老中首座松平定信の側近である水野為長が著した『よしの冊子』に拠れば、長恵は感情豊かでコミカルな人物であったらしく、ミスを犯して落胆しているところを定信に激励されてすぐ立ち直ったり、その定信が老中を罷免させられた際は、大声を上げて泣き叫び、「鬼の目にも涙とはまさしくこのことだ」と評判になるなど、激しく一喜一憂する長恵の姿が伝わっている。
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