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戦国時代から江戸時代前期の公卿。中院通為の次男。母は家女房(子に岡島一吉(岡嶋備中守)の妻)。正二位参議、神祇伯 ウィキペディアから
白川 雅朝王(しらかわ まさともおう)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての日本の公卿。元の名は雅英(まさひで)という。神祇伯在任中は雅英王、改名して雅朝王、のち伯の任にないときは白川雅朝と称す。
中院通為の次男として生まれ、白川雅業王の養子となる。永禄4年(1561年)、7歳で叙爵され、翌日侍従となり、その翌日には元服する。永禄12年、15歳のときに神祇伯に就任した。元亀2年、雅朝と改名する。
天正10年(1582年)6月2日に起きた本能寺の変の際には、誠仁親王とともに二条御新造にいたとされ、妙覚寺にいた織田信忠が二条御新造に籠城しようとしたために、雅朝王が誠仁親王らを逃がしたのだという。この時の話は後年に雅朝王が後水尾天皇に度々語っていたという。しかし、他の公家の本能寺の変当時の日記には当日の二条御新造の当番公家衆に雅朝王は含まれていない[1]。
天正13年(1585年)、従三位に叙され、公卿入りを果たした。慶長10年(1605年)に神祇伯職を長男・顕成に譲ったことで、雅朝王から源姓白川雅朝となる。しかし顕成王が伯在任中に早世してしまたっため、元和6年(1620年)再び神祇伯に任じられた。さらに母の服喪により翌年には伯を辞任、以降薨去まで伯ではないために、雅朝は王号を称さなかった。
寛永元年(1624年)、参議となる。これが白川家に於いて、参議になった初めての例である。同8年薨去。享年77歳。法号は松岩院立雪宗異。
花山天皇の男系としての血脈は、雅朝の養子入りにより途絶えてしまうことになるが、雅朝の父である中院通為は村上天皇の男系血脈を受け継いでいる。花山天皇は村上天皇の皇孫にあたるため、村上天皇を起点として捉えた場合、皇別の血脈それ自体は保たれている。しかし、実子の顕成王の早世により迎え入れた雅陳王は高倉家の出自である。これは藤原氏北家長良流の家であり、白川家の実系としての皇別の男系血脈は断絶したことになる。
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