神魂神社
島根県松江市にある神社 ウィキペディアから
島根県松江市にある神社 ウィキペディアから
神魂神社(かもすじんじゃ)は、島根県松江市大庭町にある神社である。旧社格は県社で、意宇六社の一社。本殿は現存する日本最古の大社造りで国宝。地元では「神魂さん」、「大庭の大宮さん」と呼ばれ[1]、大庭大宮、神納神社の別名もある[2][3]。
神魂神社 | |
---|---|
本殿(国宝) | |
所在地 | 島根県松江市大庭町563 |
位置 | 北緯35度25分31.9秒 東経133度5分3.5秒 |
主祭神 |
伊弉冊大神 伊弉諾大神 |
社格等 | 旧県社 |
創建 | 平安時代 |
本殿の様式 | 大社造 |
別名 | 大庭大宮、神納神社 |
例祭 | 10月18日 |
主な神事 | 神火相続、祈念祭、神在祭、新嘗祭、お釜神事 |
地図 |
社伝によれば、出雲国造の大祖・天穂日命がこの地に天降って創建したと伝わるが[2]、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社が出現しないが[4]、その理由として、出雲国造家が、自らの祖神を大庭にあった邸内で私的に祀り祭祀を行ったていた、または邸内に祀っていた社が起源であった可能性が強く、そのため文献に記載がなかったと考えられ[1][5]、やがて現在地に勧請され、近隣住民の信仰を集める形となったと考えられている[6]。文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍家下文であり、実際の創建は平安時代中期頃とみられている[6]。
神魂神社のある大庭(おおば)は、出雲の国分寺、国府に近く古代出雲の政治、交通、経済の中心地であり、天穂日命の子孫の出雲国造が住んだと伝わり[2]、出雲国造は出雲大社の宮司家となるが、出雲国造として25代まで当社に奉仕していた[7]。延暦17年(798年)以降、郡司兼務を禁じられ、大庭に別邸を残したまま、現・出雲大社のある杵築(きつき)に居を移すが[8]、出雲国造家の代替わりのときに行われる「神火相続式(おひちぎしき)」、「古伝新嘗祭」の祭祀は、明治初年まで当社に参向して行われており[4]、また大庭の別邸も明治初年まで神魂神社の社頭近くに存在していた[8]。
出雲大社近傍にある意宇六社(熊野大社、真名井神社、揖夜神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社)は、出雲国造家の緩い支配下にあったとされ、幕末まで神職の免許、社殿の造営、遷宮には、出雲国造家が関わっていたとされる[6]。特に神魂神社は、他社に比して出雲国造家の強い支配下にあり、享保20年(1735年)の『神魂社規式』に、神社の神主は出雲国造の名代として奉仕する者と記されている[6]。また出雲国造家が、明和9年(1772年)ごろ京都の柳原家へ宛てた書状『出雲両国造家代書状』などによると、神魂神社は出雲大社の摂社であり、神主や別火などの神職は、出雲国造の下司とされ、神魂神社は独立した神社と見なされていなかったことが窺える[6]。
経済的基盤として、鎌倉初期には、出雲国造家は神社の北西付近を神魂神社神領として所有し、地頭職を兼ねていた。天正13年(1585年)には、吉川元春などから86石ほどの祭田が与えられ、慶長6年(1601年)には、新・国主の堀尾氏から、71石4斗の社領が寄進を受け、寛永15年(1638年)にも新・国主の松平直政からも寄進をうけ、計221石4斗の社領を所有するようになり、幕末まで社領は安堵され、出雲国内では、出雲大社の2730石、日御碕神社の1280石に継ぐ石高となっている[9]。
祭神については、神魂神社神主を世襲で努めた秋上家の文書によると、中世末期から近世初期ごろに、上記の祭神とすることが多く、それ以前の祭神は不明である[6]。時代が下って寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見えるが、当社の創始が出雲国造家の私的祭祀や邸内の社と考えられ、出雲国造家と関わりの深い熊野大社や出雲大社に深く関わる祭神であったからと考えられる[6]。また社名から、出雲氏族の一つの神魂命が元の祭神であったとも考えられている[1]。
二重亀甲に「有」の文字[10]。
本殿は国宝に指定され、心御柱古材に「正平元年丙戌十一月日」の墨書銘がある[12]。柱古材は、正平元年(1346年)の柱と考えられるが、社殿は落雷により消失したため、現在の社殿は天正11年(1583年)に古式に則って再建されたものである[1]。室町時代の造営形態を引き継ぐ神魂神社本殿は、出雲大社よりも古い形式の大社造りをよく保存し[13]、出雲国(島根県東半部)にのみ分布する大社造のなかの最古の遺構である[8]。
出雲大社本殿に類似するが、規模は小さく広さは約5.5 メートル四方、切妻造り、妻入りの東向き、正面の右側に階段があり、内部は畳敷き[8]。屋根は栃拭き、3本の鰹木と「女千木」と呼ばれる内削ぎの千木が乗る。本殿内の梁や柱は丹塗で、鏡天井に八雲、中央の梁に竜と雲が描かれ、8ケ所の壁面に、狩野山楽、土佐光起による彩色豊かな絵が描かれ、正面入り口の本殿向かって左の扉は「月の扉」、右の扉は「日の扉」とよばれ、それぞれ満月と太陽が昇る舞楽の図が扉内側に描かれている[8][14][15]。扉は祭礼の日に開けられるため、舞楽の図を見ることができる[15]。本殿外壁は丹塗がされていないが、内部に丹塗が残ることから、かつて外壁にも丹塗が施されていたと考えられている[15]。
入口の階段は出雲大社と同様に正面に向かって右にあるが、殿内の中心に建つ心御柱(しんのみはしら)と脇の板壁および神座の位置と向きは、出雲大社とは反対になっており[8][16]、大社造には男造(おづくり)・女造(めづくり)と呼ばれる二つの内部構造があり、出雲大社は男造、神魂神社は女造となる[17]。
以下の神事が行われる[7]。
神火相続式(おひちぎしき)は、「火継式」ともよばれ、出雲国造が、世襲し代替わりするときの、聖職者継承の方法を伝える特殊神事である。神人融合・合一の儀礼で、聖火で調理した御飯と一夜酒を神々に奉献してから食すことで、神々の霊威や生命力を頂き、神職としての権威が充足される[18]。神火相続式の現存する最古の記録が、天正12年(1357年)に残る[14]。
出雲国造家では、現・国造が逝去すると、亡き父である国造の葬儀をすることなく、嗣子は直ちに神魂神社に参詣し、一昼夜のうちに神火相続の儀式を行うが、新・国造と神魂神社の秋上神主2名のみで本殿の内殿に参籠し行われる。神事が無事終了すると、直ちに神火相続成就の飛脚をたて、出雲大社へ報告し、その後、国造の葬儀を執り行ったとされる[19]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.