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クリスチアーノ・ダ・マッタ

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クリスチアーノ・ダ・マッタ
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クリスチアーノ・モンテイロ・ダ・マッタCristiano Monteiro da Matta, 1973年9月19日 - )は、ブラジルベロオリゾンテ出身の元レーシングドライバー

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2002年CARTチャンピオンで、2003年から2シーズンはF1世界選手権に参戦した[1]

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プロフィール

要約
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生い立ち

父・トニーニョ・ダ・マッタポルトガル語版はブラジルで14度のツーリングカー・チャンピオンに輝いたレーシングドライバーであり、その息子として生まれた。

ダ・マッタは16歳でカートレースにデビューする。この時から有名な父親のヘルメットとほぼ同じデザインのヘルメットを着用し、以後トレードマークでもある。カートですぐにトップクラスの能力を見せ、数々の勝利を得る。その後、1993年にブラジルフォーミュラ・フォードで四輪レースに転向、初年度に9レース中4勝の実績を挙げる。1994年にブラジルF3選手権にステップアップすると、ここでも4勝を挙げ年間チャンピオンを獲得する。

イギリス・フォーミュラ3

1995年よりイギリスに渡り、ウエストサリー・レーシングに加入しイギリスF3選手権にフル参戦した。このシーズンのイギリスF3選手権はオリバー・ギャビンラルフ・ファーマンエリオ・カストロネベスマルク・ジェネジェレミー・デュフォアなど実力者が揃っていた中、開幕戦での2位獲得、第10戦オウルトン・パークでの優勝など欧州での順応を見たF3000チームから誘いを受け、翌年の国際F3000シートの獲得に成功する。

国際フォーミュラ3000

1996年の国際F3000選手権はシャシーがワンメイク化された初年度であったが、所属したパシフィック・レーシングは前年までF1プロジェクトを行っておりF3000でのノウハウがなく、このローラ・シャシーの扱いに苦労した。ダ・マッタは高い完走率でチームメイトのパトリック・レマーリエ英語版に対しては予選・決勝とも完勝したが、シーズン最高成績は4位で表彰台に立つことが出来ず、ランキングは9位となった(レマーリエは15位)。アメリカのブライアン・スチュワート・レーシングから良い体制のオファーが届いたことにより、この年で一旦ヨーロッパでの参戦を休止して北米大陸での新たな活路を求めた。

アメリカン・オープンホイール

1997年より、アメリカでインディライツシリーズに参戦、年間3勝を挙げルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得する。1998年には同シリーズで7勝をあげてチャンピオンを獲得すると、1999年からのCARTへのステップアップが決まりトヨタエンジンを搭載したアルシエロ=ウェルズ・レーシングへの加入が発表された。CARTでは2年目の2000年第12戦シカゴランド・スピードウェイで初優勝を挙げる。この初優勝はオーバルトラックでの達成となった。2001年にトヨタ陣営となっていた名門ニューマン・ハース・レーシングへ移籍すると、その初戦である開幕戦モントレーで優勝。2002年にシーズン7回の優勝を挙げCARTシリーズチャンピオンに輝いた。

フォーミュラ1

CARTでトヨタエンジン搭載車にタイトルをもたらしたダ・マッタの活躍により、同年よりF1参戦を開始していたトヨタがダ・マッタのF1移籍のため翌年以降のニューマン・ハースとの契約を調整、ダ・マッタはトヨタよりF1に参戦することとなる。チームメイトはオリビエ・パニス。2003年のイギリスGPではレース中コースへの闖入者が現れたことによりセーフティカーが導入され、直前にピットインをしていたダ・マッタは13周目、同僚のパニスとの1-2走行を果たす。16周目でパニスはキミ・ライコネンに2位を譲りダ・マッタも間もなくライコネンに追いつかれるが、その後のライコネンの激しいアタックにもミスを犯さず30周目にピットインするまでレースをリードし続け、『CARTのアイスマン』健在を示した(結果は7位入賞)。予選が雨により混乱していた日本GPでは予選3位を得るなど、シーズンを通しては4回の入賞を果たし、ベテランのパニスを上回りランキング10位を獲得。ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

しかし、2004年にトヨタのマシンは競争力を落とし、その中でダ・マッタはテクニカルディレクターのマイク・ガスコインとの関係を悪化させ、第12戦ドイツGP終了後にリザーブドライバーのリカルド・ゾンタと交代することが発表されF1を去った[2]。17年が経過した2021年、ダ・マッタは当時の状況を告白し、「ガスコインはトヨタに加入してから大金を稼いでいたが、彼がチームで新しく試みたことで何かが良くなったことなど無く、事態を悪化させてばかりだった。異議を唱えていた僕は不満分子とみなされてトヨタから放出されたけど、そのあと結局ガスコインもトヨタから解任された。インディに僕が戻ったあと、トヨタのシャツを着た人間がやってきて『ダ・マッタさん、私はトヨタを代表してやってきました。あなたがトヨタF1で訴えていたことは正しかったです。』と言われた。その言葉はずいぶんと時間が経っていたが、僕の仕事に対して敬意を払ってくれたことはうれしかったよ。」と証言している[3]

チャンプカーへ復帰

2005年は再びアメリカに戻り、チャンプカーシリーズにPKVレーシングから参戦、第4戦ポートランドでPKVにとってのチーム初優勝をもたらした。2006年のシリーズ開始直前に下位チームながら立て直しを図るチームオーナー、デイル・コインが率いるDale Coyneレーシングへの移籍を発表した。

2006年8月3日のロードアメリカ(エルクハート・レイク)でのテスト走行中、ターン6内に進入したシカと激突。右フロントタイヤで撥ねられたシカがコクピット側に飛びダ・マッタの頭部に命中。一時意識不明となり、硬膜下血腫を取り除く手術を受けた。

1年10ヶ月のリハビリ及び休養ののち、2008年5月にラグナ・セカで行われたグランダム・シリーズにて復帰を果たした。

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レース戦績

要約
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  • 1997年 インディライツ(チーム:Brian Stewart Racing)(マシン:)ルーキー・オブ・ザ・イヤー
  • 1998年 インディライツ(チーム:Tasman Motorsports)(マシン:ローラB99/30ビューイック)チャンピオン
  • 1999年 CART(チーム:Arciero-Wells Racing)(マシン:)
  • 2000年 CART
  • 2001年 CART(チーム:Newman=Hass)
  • 2002年 CART(チーム:ニューマン ハース)(マシン:ローラB2/00トヨタ)チャンピオン
  • 2003年 F1(チーム:トヨタ(TOYOTA))(マシン:トヨタTF103)
  • 2004年 F1(チーム:トヨタ(TOYOTA))(マシン:トヨタTF104)
  • 2005年 CCWSチャンプカー・ワールドシリーズ参戦(チーム:PKVレーシング)
  • 2006年 CCWS(チーム:Dale Coyneレーシング)
  • 2006年 CCWS(チーム:RuSPORT)

イギリス・フォーミュラ3選手権

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イギリスF3 シルバーストンを走るダ・マッタ (1995年)
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国際F3000選手権

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アメリカン・オープンホイール

インディ・ライツ

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CART/チャンプカー・ワールド・シリーズ

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F1

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エピソード

CARTチャンピオンを獲得した実績あるドライバーながら、その性格は謙虚・まじめな人物である。トヨタF1在籍時代には、チームメイトのオリビエ・パニスと並んで歩いていた時、駆け寄ってきたファンがパニスと一緒に写真が取りたいと希望し、ダ・マッタにカメラマンを頼んだ(ファンはダ・マッタであることに気づかなかった)。しかしダ・マッタは親切にも受け入れ、この役目をこなしてあげた。トヨタF1首脳陣は、この温厚なダ・マッタの性格を「闘争心がない」とあまり評価しなかったとされる。ブラジル出身男性ながらサッカーの経験がなく、2023年に故郷ミナスジェライス州の強豪アトレチコ・ミネイロの試合観戦の機会があった際には自身のSNSで「初めてスタジアムに入ったよ!」とファンに報告した[4]

参照

外部リンク

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