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ジュリアン・ベイリー
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ジュリアン・テレンス・ベイリー(Julian Terence Bailey, 1961年10月9日 - )は、イギリスの元レーシングドライバー。1988年と1991年にF1世界選手権に参戦した。1999年のイギリスGT選手権、2000年のFIA GT選手権シリーズチャンピオン。
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来歴
要約
視点
イギリス・ロンドン東部で生まれたが、子供の頃をスペイン・メノルカ島で過ごしたため、レーシングキャリアのスタートはスペインのカートレースが最初だった[1]。
1980年、イギリス・フォーミュラ・フォードで4輪レースに転向し、ランキング8位となる。1982年にイギリス・フォーミュラフォード1600でチャンピオンを獲得[2]、ブランズハッチで行われたフォーミュラ・フォード・フェスティバルでも総合優勝を成し遂げた。
1983年にフォーミュラ・フォード2000へとステップアップしランキング3位(ランキング2位はマウリシオ・グージェルミン)。シーズンの閉めに行われるビッグレース「BBC TV Grandstand Formula Ford 2000 Trophy」ではアンソニー・レイド、アンディ・ウォレスを破り優勝を果たした。
1985年にデビッド・プライス・レーシングのイギリスF3選手権のシートを得てステップアップ、1986年にスワロー・レーシングに移籍し、4回の表彰台獲得でランキング6位を記録。1987年シーズン途中からGAモータースポーツに移籍し、F1直下カテゴリーである国際F3000選手権のシートを獲得。第7戦ブランズハッチでF3000初優勝をマーク、この勝利は国際F3000選手権創設後初のイギリス人による優勝だったため、イギリスのレースメディアでの注目株となり、ケン・ティレルの目に留まることにもなった。11月のマカオグランプリF3にも参戦し、レイナード873・アルファロメオで4位と上位の結果を残す。同年の活躍により、1988年にはスポンサーを持参しティレルからのF1デビューが決まった。なお、ジョニー・ハーバート、デイモン・ヒル、マーティン・ドネリーはフォーミュラ・フォード時代からイギリスF3、国際F3000までほぼ同じタイミングで同カテゴリーに参戦したライバルであり友人である。イギリスF3ではロス・チーバー、アンドリュー・ギルバート=スコットと同時期参戦だった。
F1
1988年
ティレルからF1デビューとなったが、この年チームが開発したティレル・017は重度のアンダーステアという持病がありコーナリング性能が低く[3]、決勝に進出したのはわずか6回・ノーポイントに終わり、チームメイトのジョナサン・パーマーに対して2勝14敗と大きく負け越した。ティレルとの契約は更新されなかったため、新たなシートを求めて翌1989年からのF1参戦を予定していたファースト・レーシングと交渉しシート獲得濃厚となっていたが、参戦資金の問題で2カーエントリーから1カーエントリーへと計画変更されたため立ち消えとなり[4]、フランスのラルースとテストドライバーとして契約[5]。日本のニスモとレースドライバー契約し、F1から離れてグループC(WSPC)にマーク・ブランデルとのコンビで2年間参戦した。
1991年
スポーツカーレース参戦後、負傷したマーティン・ドネリーの代役としてロータスと契約し、3年ぶりのF1復帰を果たす[6]。同年開幕前のロータスはメインスポンサーなしと、チーム存続が危ぶまれている状況だったが、3年前にデビュー戦となったサンマリノGPで6位入賞(自身F1初入賞)を果たす。さらにチームメイトのミカ・ハッキネンも5位入賞しており、ロータスにとって同年唯一のダブル入賞となった。しかしながらベイリーのポイント獲得と決勝進出はこのサンマリノGPのみであり、第4戦終了後に持ち込んだスポンサー資金が終了したためジョニー・ハーバートにシートを譲り、F1シートを失った。
その後
1991年は日産、1993年にはトヨタからイギリスツーリングカー選手権に参戦、年間ランキング最高位は5位を記録し、1995年までフル参戦した。1999年のイギリスGT選手権でリスター・ストームから参戦しチャンピオンを獲得。翌2000年には同チームでFIA GT選手権に参戦し、ここでもシリーズチャンピオンに輝いた。
現在はドライバーから引退し、ESPNのF1中継ゲスト解説者として活動中。また、BBCの自動車番組『トップ・ギア』内の覆面ドライバー「ザ・スティグ」の一人だった[7]。
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人物
- ジュニアフォーミュラ参戦時代にはロンドン北部でパブを経営しており、レース活動を本格化させるためにパブを売却した。
- 幼少期は貧しく、成人してからも読み書きが不得意だったという。
- 1980年のフォーミュラ・フォードデビューから継続してレース活動を続けられたわけではなく、1981年と1984年はレース活動をほとんど行えず、1985年にイギリスF3のシートをハーフシーズン得て活動復帰した。1987年も開幕時にシートが無く、シーズン途中から国際F3000シートを得て活動を再開している。
- 継息子のジャック・クラーク (レーサー)もレーシング・ドライバーとなった。フォーミュラ・BMW、フォーミュラ・パーマー・アウディへの参戦後、FIA F2選手権に参戦。2014年からイギリスツーリングカー選手権にデビューしている。
レース戦績
国際フォーミュラ3000
マカオグランプリ
フォーミュラ1
世界スポーツカー選手権
ル・マン24時間レース
デイトナ24時間レース
セブリング12時間レース
イギリス・ツーリングカー選手権
スパ・フランコルシャン24時間レース
FIA ツーリングカー・チャレンジ/FIA ツーリングカー・ワールド・カップ
ギア・レース・オブ・マカオ
FIA GT選手権
バサースト1000
- * : スーパーツーリング・レース
イギリス・GT選手権
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脚注
関連項目
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