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ジョー・ティンカー
アメリカ合衆国の野球選手 (1880-1948) ウィキペディアから
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ジョセフ・バート・ティンカー(Joseph Bert Tinker, 1880年7月27日 - 1948年7月27日)は、アメリカ合衆国カンザス州ムスコタ出身のプロ野球選手(遊撃手)。右投げ左打ち。1906年から1908年のカブスのリーグ3連覇を支えた「ダブルプレー・トリオ」の一人。
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経歴
1902年にカブスでデビューする。デビューしたての頃は決して守備が上手いわけではなかった。この年の遊撃手での失策数は72とリーグ最多を記録。当時カブスの監督であったフランク・セレーに守備を鍛えられ、リーグを3制覇する頃には、リーグ最高守備率をマークするまでになっていた。チームは1906年から1910年までリーグを4度制覇、ワールドシリーズも2度制覇する。
前後するが、1905年シーズン中に、二塁手だったジョニー・エバースが他のチームメイトをホテルに置いたままさっさとタクシーに乗って行ってしまい、後にフィールドでティンカーとエバースは殴り合いのケンカを起こしてしまう。ティンカーとエバースの内野連携は当時賞賛されたが、この出来事以来彼らはずっとお互い口をきかなかったという。
1912年にチームとの年俸交渉がこじれ、翌1913年にレッズへ移籍。
1914年と1915年は新興のフェデラル・リーグのシカゴ・ホエールズを監督兼任で率い、1915年リーグ制覇を遂げるが、リーグはこの年で消滅。
1916年にカブスに監督兼任で復帰し、同年限りで引退する。
引退後はフロリダ州リーグで監督やスカウトを務め、不動産業も営んでいた。1938年のワールドシリーズの解説でティンカーとエバースが同席する機会があり、2人は実に33年ぶりに仲直りをした。
1946年に、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。1948年、68歳の誕生日に糖尿病からの合併症により、フロリダ州で死去。
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プレースタイル
明治大学野球部時代の1914年にリグレー・フィールドを訪れてホエールズの試合を観戦した中澤不二雄はティンカーのプレーについて「一塁ベースの後ろに席を取り、ティンカーの送球を見るとちょうど上手い具合にティンカーの送球がはっきり見えた。ボールのスピードにもビックリしたが、彼の送球は後ろから見ていると右側に大きく逸れてくるように見えた。しかし、それがキューッとシュートしながら、一塁手のミットに収まった。天性のクセ球内野手という事を実際に見て初めて知った」と述べている[1]。打撃の方は苦手だったが、クリスティ・マシューソンの「フェイド・アウェイ」(今で言うスクリューボール)を打つのを得意としていた[1]。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル・記録
監督としての戦績
脚注
出典・外部リンク
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