トップQs
タイムライン
チャット
視点

スキップアウェイ

ウィキペディアから

Remove ads

スキップアウェイ (Skip Away1993年4月4日 - 2010年5月14日[3])[2]アメリカ合衆国競走馬種牡馬。主な勝ち鞍にブリーダーズカップ・クラシック1997年)、ハスケルインビテーショナルステークスウッドバインミリオン(以上1996年)、ジョッキークラブゴールドカップステークス(1996、1997年)、ドンハンデキャップガルフストリームパークハンデキャップ英語版ピムリコスペシャルハリウッドゴールドカップハンデキャップステークスウッドワードステークス(以上1998年)など。「スキッピー」の愛称で親しまれ[3]エクリプス賞に最優秀3歳牡馬(1996年)、最優秀古牡馬(1997年)、年度代表馬および最優秀古牡馬(1998年)と3年連続で選出された。

概要 スキップアウェイ, 欧字表記 ...
Remove ads

デビューまで

1993年4月4日フロリダ州にあるインディアンヒルファームのアンナ・マリー・バーンハートのもとで生まれ、成長するとオカラでのトレーニングセールに出品されて調教師のヒューバート・ハインが3万ドルで落札[3]。しかし、落札後に膝の骨に欠落がある事が判明し、落札価格3万ドルから手術のための費用7500ドルを差し引いた価格を実際の購買価格とすることで契約が成立した[3]。もっとも、件の手術は実際には行われなかった[3]

戦績

要約
視点
  • 特記事項なき場合、本節の出典はEQIBASE[1]

2 - 3歳(1995 - 1996年)

1995年6月16日、モンマスパーク競馬場のメイドン競走でデビューし、4着。2戦目のブラックタイプ競走グリテッドタイムスステークス2着を経て、3戦目のメイドン競走で初勝利を挙げる。その後しばらくはカウディンステークス英語版レムゼンステークス英語版でともに2着など勝ちきれない競馬が続いたが[3]、3歳を迎えて初戦のアローワンス競走で2勝目を挙げた。G1競走初出走のフロリダダービーアンブライドルズソングの3着ののち、ブルーグラスステークスルイカトルズ英語版を6馬身差下して重賞初勝利[3]アメリカクラシック三冠路線に進み、ケンタッキーダービーでは19頭立ての12着[3]。結果的にこれが生涯最低着順となった。続くプリークネスステークスベルモントステークスでは続けて2着に入り、オハイオダービー英語版1着ののち出走のハスケルインビテーショナルステークスでG1競走初勝利を挙げる。トラヴァーズステークス3着を挟み、ウッドバイン競馬場に遠征して出走のウッドバインミリオンでG1競走2勝目。10月ベルモントパーク競馬場でのジョッキークラブゴールドカップステークスシガーに挑み、最後の直線で競り合った末にシガーを頭差下して勝利[3]。3歳時は以降は出走しなかったものの12戦して6勝、そのうちG1競走を3勝してエクリプス賞最優秀3歳牡馬に選出された[3]

4歳(1997年)

1997年ドンハンデキャップから始動してフォーマルゴールド英語版の2着。続く3戦もリステッド競走1つを含んで2着、3着、2着としたあと、サフォークダウンズ競馬場英語版のG3競走マサチューセッチハンデキャップ英語版に進んでフォーマルゴールドをアタマ差破って半年近くぶりの勝利を挙げる。続くサバーバンハンデキャップでもウィルズウェイを下して重賞を連勝するが、ホイットニーハンデキャップではウィルズウェイ、フォーマルゴールドに後れを取っての3着。フィリップ・H・アイズリンハンデキャップ英語版ウッドワードステークスでもフォーマルゴールドの前に屈して連続2着に終わったが、ジョッキークラブゴールドカップステークスでは道中から逃げてインスタントフレンドシップに6馬身半差をつけてG1競走4勝目を挙げ、ハリウッドパーク競馬場でのブリーダーズカップ・クラシックでも逃げてデピュティコマンダー英語版を6馬身差破ってG1競走5勝目とした。秋のG1競走2連勝は印象的な勝利とみられたが、1997年度のエクリプス賞年度代表馬の座は2歳馬フェイヴァリットトリックに持っていかれて最優秀古牡馬の座のみに選出された[3]

5歳(1998年)

5歳を迎えた1998年は前年同様ドンハンデキャップから始動し、先行策から押し切って1着。前年は逸したガルフストリームパークハンデキャップ英語版ピムリコスペシャルをも制して、G1競走5連勝を記録する。マサチューセッツハンデキャップを連覇ののち西海岸地区に向かい、ハリウッドゴールドカップハンデキャップステークスを逃げ切りで勝利。フィリップ・H・アイズリンハンデキャップとウッドワードステークスも制して前年のジョッキークラブゴールドカップステークスからの連勝を9まで伸ばしたが、2年連続制していたジョッキークラブゴールドカップステークスで3着に終わって2年越しの10連勝はならず、ブリーダーズカップ・クラシックではシルバーチャームスウェインオーサムアゲインらと相まみえた末に6着に終わり、残り約30万ドルにまで迫っていた、シガーの持つ当時のアメリカにおける生涯獲得賞金記録9,999,815ドル[4]を上回ることはできずに引退。それでも5歳時は9戦してG1競走5勝を含む7勝、それも6つの異なる競馬場で挙げ、エクリプス賞年度代表馬と2年連続の最優秀古牡馬に選出された[3]

Remove ads

競走成績

要約
視点

以下の内容は、EQIBASE[1]の情報および記載法に基づく。

さらに見る 出走日, 競馬場 ...
  • BT:ブラックタイプ競走
Remove ads

引退後

引退後はケンタッキー州ミッドウェー英語版のホープウェルファームで種牡馬となり[3]、最初の2年の種付料が5万ドル、3年目の2001年は3万ドルに設定されていた[5]ブラッド・ホース誌が選ぶ20世紀のアメリカ名馬100選では第32位に選ばれ[6]2004年にはアメリカ競馬殿堂入りを果たした[3]。また、シガーの記録にわずかに届かなかった獲得賞金9,616,360ドルの記録は、のちにカーリンが記録をまとめて更新後も第3位つけている[3]。生涯で522頭の産駒を送り出し、そのうち293頭が勝ち上がって25頭がステークスウイナーとなった[6]。日本での産駒も、マイネルエクソンが園田金盃を制し、クリスタルヴィオレがクイーンカップダイワエルシエーロの2着に入るなどの成績を残した。

2010年5月14日、ホープウェルファームにて、心臓発作のため17歳で急逝[3]。墓はケンタッキー州ジョージタウン功労馬繋養施設オールドフレンズにある[6]

主な産駒

Remove ads

血統表

スキップアウェイ血統(血統表の出典)[§ 1]
父系ダマスカス系
[§ 2]

Skip Trial
1982 鹿毛
父の父
Bailjumper
1974 鹿毛
Damascus Sword Dancer
Kerala
Court Circuit Royal Vale
Cycle
父の母
Looks Promising
1968 芦毛
Promised Land Palestinian
Mahmoudess
Fouoresse Double Jay
Snow Flame

Ingot Way
1981 芦毛
Diplomat Way
1964 鹿毛
Nashua Nasrullah
Segula
Jandy Princequillo
Centernary
母の母
Ingot
1971 芦毛
Iron Ruler Never Bend
Obedient
Glorious Night Dark Star
Queen Fleet
母系(F-No.) (FN:14-f) [§ 3]
5代内の近親交配 Nasrullah 4 × 5 = 9.38%、Mahmoud 5 × 5 = 6.25% [§ 4]
出典
Remove ads

脚注

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads