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ペドロ・バルデス

プエルトリコの野球選手 (1973-) ウィキペディアから

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ペドロ・ホセ・バルデス・マンゾPedro Jose Valdes Manzo1973年6月29日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手外野手、左投左打)。

概要 基本情報, 国籍 ...
概要 獲得メダル, プエルトリコ ...
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経歴

要約
視点

プロ入りとカブス時代

1990年MLBドラフト12巡目(全体340位)でシカゴ・カブスから指名され、プロ入り。

1996年5月15日、メジャーデビューを果たした。

1998年12月4日にDFAを経て自由契約となった。

レンジャーズ時代

1999年1月12日にボストン・レッドソックスと契約したが、4月5日に再びDFAとなった。4月18日にテキサス・レンジャーズと契約した。

ダイエー時代

2000年オフ、年俸2,500万円でトニー・ミッチェルとともに福岡ダイエーホークスに入団。来日1年目の2001年シーズンは、恐怖の2番打者として一時は打率4割を記録するなどの活躍を見せた。

2002年も前年同様21本塁打をマークした。

2003年には打撃3部門全てで自己最高の成績をマークし、チームの日本一に貢献。3番井口資仁(109打点)、4番松中信彦(123打点)、5番城島健司(119打点)の後を支える6番打者として104打点を記録し、100打点カルテットを組んだ。

2004年は、夏場までは3割を超える活躍を見せていたが、8月中旬から不振に陥り、9月には故障により登録を抹消されるもプレーオフには出場した。この年は打率3割を逃し、4年連続での3割達成を逃す形となった。オフには戦力外通告を受け退団した。本人は、日本でのプレーを希望していたが獲得する球団は現れなかった。

メキシカンリーグ時代

2005年は、メキシカンリーグへ移籍。

2006年はメキシカンリーグのゲレーロ・デ・オアハカに在籍し、打率.362、本塁打14、打点100を残す。

韓国時代

2006年12月29日、李炳圭中日ドラゴンズに移籍し、選手層の薄くなっていた韓国プロ野球LGツインズに入団。LGでのニックネームは「蚕室の黒真珠」「잠실의 흑진주」。2007年は打撃面では安定していたものの、長打力が期待に及ばなく、また守備にも不安があったことや、チームがサムスンからジェイミー・ブラウンを獲得したこともあり、1年で自由契約となる。

メキシカンリーグ時代

2008年以降は、主にメキシカンリーグでプレーした[1]

プエルトリコ時代

2009年からはプエルトリコのウィンターリーグでもプレー。

2010年-2011年シーズンには打率.316(6位)、本塁打4(1位タイ)、打点27(1位)を残し、シーズンMVPを受賞。さらにカロリーナ市から長年の功績を讃えられバルデスの背番号20が永久欠番とされた。受賞に際しては「このような賞をいただいて非常に感動している。ここカロリーナでは私の家族、息子たち、市長、そして毎試合自分を応援してくれたカロリーナのファンといつも過ごしてきた」とコメントした[2]

2013年3月に開催された第3回WBCプエルトリコ代表に選出された。

引退後

2017年1月12日にオリックス・バファローズの駐米スカウトに就任した[3]

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人物

関係者によれば「気難しい人物」であるという。例えばフリー打撃では「真ん中の球以外には手を出さない。ストライクゾーン内であっても、内外角両コーナーの球は見送り、打って手がしびれたりすると、規定のスイング数の途中で止めてしまうことがあった」。また人間の好き嫌いも激しく、ダイエー時代に打撃コーチを務めた新井宏昌は、後に「当時、自身がバルデスから毛嫌いされていた」「(バルデスが)本塁打を打ってベンチに帰ってきた際も、一人だけハイタッチを拒否された」ことを明らかにしており、バルデスからは「新井コーチが打撃投手に指示して、自分が打ちにくい球を投げさせている」とまで言われた(もちろんそのような事実はない)と語っている[4]

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...

記録

NPB

背番号

  • 28 (1996年、1998年)
  • 9 (2000年)
  • 35 (2001年 - 2004年)
  • 57 (2007年)
  • 202013WBC

代表歴

脚注

関連項目

外部リンク

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