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マクラーレン・M19A

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マクラーレン・M19A
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マクラーレン・M19A (McLaren M19A) は、マクラーレン1971年から1973年F1世界選手権に投入したフォーミュラ1カーM19CはM19Aの改良型で、1972年および1973年に使用された。

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設計

ゴードン・コパックインディ500用のマクラーレン・M16の設計を担当していたため、1971年シーズン用のF1マシンはラルフ・ベラミーが担当した。その結果「The Alligator Car」のニックネームを持つ別の車が出来上がった[2]。このニックネームの理由となった梨地のコクピット側面は、3つの燃料タンクの内2つをドライバーの横に配置した結果であった[3]

M19Aは前後のサスペンションにインボード式のコイルオーバーショックを採用し、それはスプリングが圧縮されるにつれてスプリングレートが増加する揺動リンクを介して作動した[3]。この揺動リンクは従来システムを採用するM19Cでは使用されなかった[1]。M19AとM19Cはどちらもコスワース DFVをミッドマウントで搭載し、ヒューランドの5速マニュアルギアボックスを採用した。

レース戦歴

1971

M19Aはデニス・ハルムのドライブで1971年南アフリカグランプリにデビューした。ピーター・ゲシンは引き続いてM14Aをドライブし、2台目のM19Aはオランダグランプリに投入された。ゲシンがBRMに移籍した後、ジャッキー・オリバーオーストリアグランプリで2台目のM19Aをドライブした。ハルムはカナダグランプリでM19Aの初のファステストラップを記録した。しかしM19Aはシーズンを通して信頼性が低く、コンストラクターズランキングは6位に終わった。

ワークス以外もM19Aを使用した。カナダグランプリおよびアメリカグランプリではペンスキー-ホワイト・レーシングがM19Aを走らせ、カナダではマーク・ダナヒューがF1デビューし3位に入った。デヴィッド・ホッブスはアメリカグランプリで10位となった。

1972

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ピーター・レブソンのマクラーレン・M19C、2004年カナダグランプリにおけるデモ走行

マクラーレンは1972年シーズンに向けて、新スポンサーとして化粧品会社ヤードレー・オブ・ロンドンを獲得した。マシンはヤードレーのスポンサーカラーである白に塗り替えられ、車体側面の燃料タンクのみ従来のオレンジ色で塗装された。

開幕戦のアルゼンチングランプリでハルムは2位に入り、幸先の良いスタートとなった。ピーター・レブソンはマクラーレンでのデビュー戦となったがリタイアに終わった。第2戦南アフリカグランプリではハルムが優勝、レブソンは3位と両者とも表彰台に上った。ハルムの優勝は自身およびマクラーレンにとって1969年メキシコグランプリ以来の優勝であった。

改良型のM19Cはモナコグランプリに投入され、ハルムがドライブした。レブソンとブライアン・レッドマンオーストリアグランプリまでM19Aをドライブした。レブソンはカナダグランプリポールポジションを獲得、これはマクラーレンにとって初のポールポジションであった。1971年に比べて信頼性は向上し、コンストラクターズランキングは3位となった。

後のワールドチャンピオン、ジョディ・シェクターはM19AをドライブしてアメリカグランプリでF1デビューを果たした。

1973

マクラーレンはハルムとレブソンのラインナップで1973年シーズンに入り、マシンはM19Cを引き続いて使用した。レブソンはブラジルグランプリではM19Aに切り替えている。ハルムは南アフリカグランプリで新型のM23をドライブした。ハルムはポールポジションを獲得、決勝は5位に入り、レブソンとシェクターはM19Cを使用、レブソンが2位、シェクターは9位となった。レブソンの2位はM19に取って13回目、最後の表彰台となった。このレースがM19に取って最後のレースとなった。

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F1における全成績

要約
視点

(key) (太字ポールポジション斜体ファステストラップ

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* 4ポイントはカスタマーチームによる。
** 1973年の36ポイントはマクラーレン・M23による。

ノンワークス

(key) (太字ポールポジション斜体ファステストラップ

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脚注

外部リンク

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