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ミゲル・バティスタ

ドミニカ共和国の野球選手 (1971 - ) ウィキペディアから

ミゲル・バティスタ
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ミゲル・デスカルテス・バティスタ・ヘレスMiguel Descartes Batista Jerez, 1971年2月19日 - )は、ドミニカ共和国サントドミンゴ出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。また、作家や詩人としても活動している。

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

要約
視点

プロ入りとパイレーツ時代

1988年にアマチュア・フリーエージェントでピッツバーグ・パイレーツと契約を結び、プロ入りを果たす。

1992年4月11日にメジャーリーグデビューを果たす。

マーリンズ時代

1996年フロリダ・マーリンズでプレーした。

カブス時代

1997年シカゴ・カブスでプレーした。

エクスポズ時代

1997年12月12日にヘンリー・ロドリゲスとのトレードで、モントリオール・エクスポズへ移籍した[1]

ロイヤルズ時代

2000年4月25日にブラッド・リグビー英語版とのトレードで、カンザスシティ・ロイヤルズへ移籍した[1]

ダイヤモンドバックス時代

2001年アリゾナ・ダイヤモンドバックスと契約を結び、スウィングマンとして先発・中継ぎを行き来しながらも48登板(18先発)で139.1回を投げ11勝、4ホールド、90奪三振、防御率3.36を記録した。

2002年は主に先発として起用され、36登板(29先発)で184.2回を投げ8勝、2ホールド、112奪三振、防御率4.29と二桁勝利は逃したものの先発ローテーションに定着した。

2003年も先発として起用され、36登板(29先発)で193.1回を投げて10勝、142奪三振、防御率3.54で2完投(1完封)も記録し、自身の先発キャリアとしては最高とも言える年だった。

ブルージェイズ時代

2003年12月12日に3年総額1,310万ドルでトロント・ブルージェイズへ移籍した[2]

2005年クローザーとして31セーブを記録した。

ダイヤモンドバックス復帰

2005年12月27日にトロイ・グロースセルジオ・サントスとのトレードで、オーランド・ハドソンと共にダイヤモンドバックスへ移籍した。

2006年開幕前の3月に第1回WBCドミニカ共和国代表に選出された[3]

シーズンでは先発ローテーションに定着し、二桁勝利を挙げる活躍を見せた。3年契約を満了し、オフにFAとなった。

マリナーズ時代

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シアトル・マリナーズでの現役時代
(2009年3月20日)

2006年12月14日に3年総額2,500万ドルでシアトル・マリナーズへ移籍した[4]

2007年はチーム最多の16勝を記録した。

2008年は6月25日にシーズン10敗目を喫し、その2日後にバティスタはメディアに対し、腰と脇腹付近に痛みを抱えていることを明らかにし、「このチームで、痛みを押して投げ続けているのはこの僕だけだ。他の選手は痛ければ故障者リスト入りしたり、登板を回避している。でも僕はそうしていない」とチームの不満を語った[5]。先発と中継ぎで44試合に登板し、自己ワーストの14敗でシーズンを終えた。

2009年は4年ぶりに先発登板なしに終わったが、登板の約3分の1が2回以上を投げるロングリリーフだった。シーズン終盤には頭を剃り上げ、最後の8試合で無失点を記録した。

ナショナルズ時代

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ワシントン・ナショナルズでの現役時代
(2010年4月24日)

2010年1月29日にワシントン・ナショナルズとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加した。7月27日に昇格し、その日のアトランタ・ブレーブス戦では当初スティーブン・ストラスバーグの先発が予定されていたが、試合開始直前に登板を回避したため代わって2年ぶりに先発登板した。5回無失点の投球で初勝利を挙げたが、ストラスバーグの登板を期待していた観客からブーイングを浴び、その感想について問われた際に「ミス・ユニバースを観に来て、ミス・アイオワ英語版が出てきたらこういう反応になるよ」とコメント。この発言に対し「アイオワがバカにされた」とミス・アイオワのキャサリン・コナーズが抗議したため、「決してミス・アイオワの美貌を否定したわけではない」とコナーズに花を贈り、謝罪の電話。さらに30日のナショナルズ・パークでの試合に招待し、始球式で投げたコナーズの捕手役を務め、ツーショット写真を撮り、コナーズは「彼は最高。恨んでなんかいないわ」とコメント。これがきっかけで10月に行われるミス・アイオワの審査員をすることになった[6]

カージナルス時代

2011年1月14日にセントルイス・カージナルスとマイナー契約を結び、招待選手として参加したスプリングトレーニング中のプレシーズン・ゲームで8試合に登板して防御率1.59、WHIP1.32の投球を見せ、開幕メジャー入りする。しかし6月まで29試合の登板で防御率4.60、WHIP1.57の成績を喫し、特に与四球率5.83と制球に苦しんで6月22日に自由契約となった。

メッツ時代

2011年7月4日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ。また、この年の最終戦(シンシナティ・レッズ戦)では完封勝利を飾った。

2012年1月10日に再びマイナー契約を結んだ[7]。シーズンに入ってからは1勝3敗、防御率4.82を記録した。7月22日にDFAとなり、7月26日に放出された[8]

ブレーブス時代

2012年7月27日にブレーブスと契約を結んだ。

ブルージェイズ傘下時代

2013年1月19日にコロラド・ロッキーズとマイナー契約を結んだ[9]が、3月25日に自由契約となった。

その後、4月9日にブルージェイズとマイナー契約を結ぶ[10]も、5月21日に自由契約となった[11]

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投球スタイル

150キロを超える速球とスライダーカッターが持ち味。ブルージェイズに所属していた頃は、クローザーを経験したこともある。

人物

野球選手以外に作家・詩人という一面も持つ。2006年にはバティスタ自身が手掛けた推理小説「血の復讐」(The Avenger of Blood)はフェニックスを舞台としており、警察の捜査官や弁護士などに取材をして執筆した[12]

詳細情報

年度別投手成績

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  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す

年度別守備成績

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背番号

  • 53(1992年)
  • 43(1996年、2001年 - 2003年途中、2004年 - 2010年)
  • 47(1997年、2011年途中 - 2012年途中)
  • 48(1998年 - 2000年途中)
  • 35(2000年途中 - 同年終了)
  • 25(2003年途中 - 同年終了)
  • 44(2011年 - 同年途中)
  • 52(2012年途中 - 同年終了)

代表歴

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脚注

関連項目

外部リンク

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