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ランベルト・レオーニ

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ランベルト・レオーニLamberto Leoni, 1953年5月24日 - )は、イタリア出身の元レーシングドライバーファースト・レーシング創設者[1]

概要 ランベルト・レオーニ, 基本情報 ...

経歴

要約
視点

フォーミュラ3参戦

1973年にプライベーターとしてテクノ・TF71を入手しイタリアF3選手権に参戦。1974年にマーチ・743を入手すると決勝進出機会を増やし、最高8位を記録する。イタリアF3に同時期参戦した選手にはアルベルト・コロンボジョルジオ・フランシアピエルカルロ・ギンザーニなどがいた。

ミナルディの前身に加入

1975年にチームとしてイタリアF3からヨーロッパF2に進出したスクーデリア・デル・パサットーレ(のちのミナルディ)に加入し、チームと共にF2へステップアップ。チームメイトはジャンカルロ・マルティニ(ピエルルイジ・マルティニの叔父)であった。1975年ヨーロッパF2開幕戦でレオーニは3位表彰台の活躍を見せ、第2戦ではマルティニが3位とチームは好調な出だしだったが、それが最高成績となり以後の結果は下降していった。1976年にチームは「スクーデリア・エベレスト」と名を変え、レオーニはイギリス、イタリア、ヨーロッパの各F3選手権に参戦。ヨーロッパ第5戦エンナ・ペルグーサ/ヒート1ではポールポジションを獲得した。

フォーミュラ1

1977年はエベレストがラルト・RT1シャシーを購入し、参戦カテゴリーをヨーロッパF2への再挑戦としたが、予選通過に苦戦しレオーニはF2第10戦よりトリヴェラート・レーシングへと移籍する。するとその2戦目で、2ヒート制の合計タイムでエディ・チーバーを上回ってF2初優勝を達成し、評価が急騰。直後に迫っていたF1第14戦イタリアGPに向けてスポンサー資金が集まり、サーティースと契約を結びスポット参戦することになった。しかし、サーティースはチームに資金をもたらしていたダニー・オンガイスが序盤2戦のみでスポンサーと共に自チーム設立のため去ってしまったため、深刻な資金難に陥り悲惨な状況にあった。このためTS19に乗る前任者だったトニー・トリマーパトリック・タンベイヴァーン・シュパンも予選落ちをするレベルのマシンであり、レオーニも決勝進出タイムを出せず予選通過に失敗する。

1978年エンサインと契約し、開幕からF1のレギュラーシートを獲得したが、第3戦、第4戦と連続で予選通過に失敗すると、チームボスであるモーリス・ナンが有望と感じていたジャッキー・イクスを誘ったため、シートを奪われてチームを去った。同年はその後全日本F2選手権にスポット参戦した。

フォーミュラ2

レオーニは1979年にヨーロッパF2に戻るが、6月で参戦資金が尽き撤退。1981年にF3シャシー製造を本格化し始めたコンストラクター、ダラーラのF380シャシーでイタリアF3選手権に参戦。1982年は6月からアルトゥーロ・メルツァリオが立ち上げたチームに加入し、ヨーロッパF3選手権やF2選手権に参戦した。

レーシングチーム設立

その後、1985年より改組され新たなカテゴリーとして始まった国際F3000選手権にも参戦を続けた。1987年に彼自身のチーム「ファースト・レーシング」を創設。チームオーナー兼ドライバーとして参戦し、チームメイトにはガブリエル・タルキーニを起用。3台目のマシンにはベッペ・ガビアーニクラウディオ・ランジェスアラン・フェルテを交代で乗せた。1988年6月11日に行われたル・マン24時間レース伊太利屋チーム・ルマン日産・R88Sで参戦しエンジントラブルでリタイヤしたのが、ドライバーとしては最後のレースとなった。

以降はチームオーナー業に専念し、レオーニのファースト・レーシングは国際F3000選手権では上位のグループに属して1988年にピエルルイジ ・マルティニが1勝を挙げランキング4位を獲得。1989年と1990年はマルコ・アピチェラが未勝利ながら表彰台の常連としてタイトル争いに絡み、ランキング4位と6位を獲得した。

1989年に向けてのFIAによるF1エンジンレギュレーション変更により、ターボ禁止・NA3500ccエンジンのみに規制されたのを受け、ファースト・レーシングのF1参戦計画を進めた。ドライバーはタルキーニと契約し、オリジナルマシンの完成まで至っていたが、資金調達の問題により89年シーズンの開幕直前でF1計画は断念された[2]。同年夏にこのシャシーはライフに売却され[3]、1990年のライフ・L190に流用された[4]。レオーニはその後、ファーストのF3000活動でエースとなっていたマルコ・アピチェラをマネジメントした。

レオーニは1991年まで国際F3000選手権でチーム運営をしたが、同年途中で撤退。以後はディディエ・ピローニがそうだったようにパワーボートレースに活動を移した。パワーボートでは多くの勝利を勝ち取り、1993年の世界選手権で王座を争う活躍を見せた[5]。その活動のかたわら、ジュニア・フォーミュラのレースにトーマス・ビアッジシリル・ソバージュ英語版を起用して復帰した時期もある。

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レース戦績

FIA ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権

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ヨーロッパF2選手権

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国際F3000選手権

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フォーミュラ1

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全日本フォーミュラ2選手権

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ル・マン24時間レース

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脚注

外部リンク

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