トップQs
タイムライン
チャット
視点

マルコ・アピチェラ

ウィキペディアから

Remove ads

マルコ・アピチェラMarco Apicella, 1965年10月7日 - )は、イタリアレーシングドライバー。血液型はO型。エミリア=ロマーニャ州ボローニャ出身。1994年度全日本F3000選手権シリーズチャンピオン。

概要 マルコ・アピチェラ, 基本情報 ...

経歴

1981年にレーシングカート世界選手権に参戦を開始し、1983年には選手権3位の成績を収めた。翌1984年より3年間はイタリアF3選手権に参戦、アレックス・カフィニコラ・ラリーニと争った。F3最後の年となった1986年にはダラーラのワークスドライバーとしてシリーズ2位を獲得し、1987年からダラーラと共に国際F3000選手権にステップアップ。1988年ファースト・レーシングに移籍し、1989年の国際F3000選手権ではシーズン終盤までジャン・アレジエリック・コマスのチャンピオン争いに絡む活躍を見せた[1]。この年の国際F3000トップランカーはアレジ、エリック・ベルナールをはじめ、アピチェラよりランキングが下であったマーティン・ドネリーJ.J.レートなどもF1シートを獲得する中、アピチェラもF1シートを得るべくアロウズ他、数チームと交渉するもテスト・リザーブドライバーの話までに留まり[2]、ファースト・レーシングがF1ステップアップを発表した際にはドライバー候補に上げられたがファースト自体がF1参戦を断念したため実現せず、継続参戦となった国際F3000では1990年ランキング6位、1991年ランキング5位と上位を獲得し続けたが、延べ5年のフル参戦で表彰台10回登壇(2位7回、3位3回)、ポールポジション2回、ファステストラップ6回の記録を残しながら優勝だけは挙げることができず、F1への道は開かなかった。

Remove ads

日本での活動

1992年より全日本F3000選手権に参戦。1994年には童夢のオリジナルマシンを駆りシリーズチャンピオンを獲得した。全日本F3000がフォーミュラ・ニッポンへと生まれ変わった後も1997年まで参戦した。1999年には母国イタリアのF3000選手権で活動するが、翌年には再び日本へ戻り、全日本GT選手権へ参戦する。

全日本GT選手権へは1997年にスポット参戦した経験があったが、本格的な参戦は2000年からであった。この年はGT300クラスへの参戦となったが、2001年よりJLOCランボルギーニ・ディアブロでGT500に参戦した。しかしワークス体制で挑む日本メーカーのライバルに対してマシン性能で遅れをとっていたため、しばらくは結果を残すことができなかった。2003年よりトムスに移籍し度々速さを見せたが、シリーズ18位となった。2004年は土屋武士とのコンビで参戦し、シリーズ7位を獲得。2005年から再びJLOCに戻り、ランボルギーニ・ムルシエラゴをドライブ。チームの活動方針変更でGT300クラスに移行後もチームに帯同し、2006年の開幕戦で優勝した。

2005年のスーパー耐久では、十勝24時間レースにPERSON'S RACINGよりST3クラスのホンダ・NSXで出場した。独自の1段高いギアでのコーナリングなどにより、チームメイトの他ドライバーと同タイムで走った場合にも、燃費が20%近く良い状態で走行した。レースではスタートドライバーを務め、この低燃費走行によりチームのシミュレーションによる予測(最初の給油まで1時間20分前後)を覆し、1時間40分近くまで引っ張り首位の座を確保してのピットインを実現し、チームのST3クラスでの表彰台獲得に貢献した。

Remove ads

1993年のF1スポット参戦

それまでにも1990年2月のヘレステストでのミナルディ・M189[3]や、エストリルテストでのモデナ・ランボルギーニ291のテストドライブ経験はあったが[4]、 1993年のF1第13戦イタリアGPに、ジョーダン・ハートから遂にF1グランプリ初参戦を果たす。前戦のベルギーGPを最後にティエリー・ブーツェンがF1から引退したため、空席となったジョーダンのセカンドシートを急遽買い取ってのスポット参戦だった。 予選23位グリッドから決勝を迎えたが、スタート直後に多重事故に巻き込まれリタイヤとなり、アピチェラのレースは800メートルで終了することとなった。これはF1決勝レースに1度でも出走した選手の生涯最短周回記録として残っている[5]

その後はF1参戦を目指した童夢のテストドライブを担当している。

現役引退後

レーシングドライバーとしては一線を退いているが、フリーランスのテストドライバーとして2018年にダラーラが開発したスポーツカー、ダラーラ・ストラダーレ[6]の開発ドライバーを務めるなど[7]、2019年現在もテストドライバーとしての活動を継続している。2019年よりスーパーフォーミュラに導入されたダラーラ・SF19の開発ドライバーも担当した[8]。イタリアではヘルメットメーカーのスティーロと契約し製品開発・営業・広報活動を行っている[9]

主な戦歴

マカオグランプリ

さらに見る 年, チーム ...

国際F3000選手権

1987年 - 1991年
  • 最高位 2位(7回)
  • ポールポジション 2回
  • ファステストラップ 6回
  • ランキング最高位 4位(1989年)
さらに見る 年, チーム ...

全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン

1992年 - 1997年
  • 優勝 5回
  • ポールポジション 3回
  • ファステストラップ 6回
  • 1994年シリーズチャンピオン
さらに見る 年, チーム ...

F1

さらに見る 年, チーム ...

イタリアF3000

1999年
  • 優勝 2回
  • ポールポジション 0回
  • ファステストラップ 0回
  • ランキング最高位 3位(1999年)

ル・マン24時間レース

1995年、1999年、2006年、2007年、2009年
  • 最高位 総合14回(クラス8位)(1995年)
  • ポールポジション 0回
  • ファステストラップ 0回
さらに見る 年, チーム ...

全日本GT選手権/SUPER GT

さらに見る 年, チーム ...
Remove ads

出典

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads