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一条経通

鎌倉時代末期~南北朝時代の公卿。一条内経の長男。従一位・関白、左大臣。一条家5代。藤氏長者。勅撰集『風雅和歌集』以下に7首入集。藤氏長者。子に慈済(大僧正、延暦寺、天台座主1 ウィキペディアから

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一条 経通(いちじょう つねみち)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿関白一条内経の長男。官位従一位・関白、左大臣一条家5代当主。

概要 凡例一条経通, 時代 ...

1336年の南北分裂後は北朝側に属し、北朝第2代光明天皇の下で、建武5年(暦応改元前、1338年)から暦応5年(康永改元前、1342年)まで関白を務め、同時に藤氏長者となった。日記『玉英』の著者。

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経歴

元亨元年(1321年12月15日、5歳で元服し、正五位下に叙せられる。正中2年(1325年)に父が死去すると、一条家の当主となる。元徳3年/元弘元年(1331年)、光厳天皇の即位を祝して正二位に叙せられるが、元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇隠岐国から帰京し、光厳天皇の即位は無効とされ、その結果、光厳天皇の下でなされた正二位への昇叙も取り消された。ただし、翌年正月、改めて正二位へ昇叙され、その翌年には内大臣となった。後醍醐天皇の親政による建武の新政は、武士層の反感を招き、建武3年(1336年)に足利尊氏軍が京の都を制圧することで瓦解し、8月15日には光明天皇が立てられた。両統迭立の伝統に従い、持明院統の光明天皇は大覚寺統である後醍醐天皇の皇子成良親王皇太子とすると、経通は当時11歳の成良親王の東宮傅に任ぜられた。その後は左大臣、関白を歴任した。

東福寺との関係が深く、土地の寄進のほか、関白辞任後の貞和3年(1347年)6月には、焼失していた本堂(仏殿)再建の上棟を行った。

貞治4年(1365年)薨御。享年49。法名は父の法名(芬陀利花院)から、後芬陀利花院とされた。

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官歴

官位位階の履歴は以下の通り。年齢は数え年、月日は旧暦。西暦年は、分かりやすくするため旧暦と新暦のずれを考慮せず、単純に置き換えただけである。

さらに見る 年(歳), 月日 ...
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系譜

脚注

参考文献

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