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三条陸

日本の漫画原作者、脚本家 ウィキペディアから

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三条 陸(さんじょう りく、1964年昭和39年〉10月3日 - )は、日本漫画原作者脚本家大分県出身、東京都品川区育ち。血液型Rh-AB型[12]明治大学卒業。複数の別名義を使用して活動もしており、いずれの名義もイニシャルをR・Sで統一している[8]

概要 三条 陸 (さんじょう りく), ペンネーム ...
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経歴

要約
視点

大分県で生まれ、2歳頃に家族で神奈川県東京都品川区付近[13])に移住し、その後東京都品川区に転居した[14]。子供の頃からウルトラマン仮面ライダーが好きで、当時の学年誌などに掲載されていた円谷プロメイキング記事を見て特撮に関わる仕事に憧れ、小学校低学年の頃から「ウルトラマンを作るおじさんになりたい」と言っていた[15][16]漫画を描くことが好きで、漫画家にも漠然と憧れていた[17]。周囲の人を笑わせたり楽しませたりするのが大好きで、クラスのムードメーカー的存在であった[13]

「自分の子どもは大学に行かせたい」と考えた父に大学の付属高校の受験を勧められ、合格した高校の一つである明治大学付属明治高校に進学[17]。高校では最初は美術部に入部し、後からは映画研究会に入部した[17][18]。得意科目は国語で、試験当日に数十分勉強すれば90点は取ることができた[17]。学校を一日も休まず、卒業式で皆勤賞を受賞した[17]。その後明治大学文学部に進学し、在学中は漫画研究会に在籍[17][19]。文学部への進学を決めた際には母親に猛反対されたが、普段は厳しい父親が「好きな学部に行かせてやれ」とフォローしてくれた[17][20]。日本の古典文学を研究するゼミに入り、卒業論文近松門左衛門をテーマとした[17]

中学3年生頃から[21]アニメなどのファンサークルに入り[17]、「RH-の椎原」「椎原竜次」名義でアニメや特撮の同人誌の製作に携わり始め、大学時代から後述の「須田留貧」名義を使用するようになった。椎原名義で活動する際は、自身の血液型から取った「RH-」というサインを使用していた。実在の雑誌テレビランドをパロディ化した同人誌『テレビラドン』[10]宇宙刑事シャリバンの漫画を掲載した際、同作のデザイナーで当時親交のあった野口竜を捩って「のぐち竜次」というペンネームを使用したこともある。

大学在学中に『ホビージャパン』でキャリアを開始し、海洋堂の撮影用キャストキットの素組み、『ウルトラシリーズ』の作品紹介記事や、『ゾイド』のジオラマ模型につける小説などを手掛けた[18]。このときの『ゾイド』の小説が三条陸名義の初仕事となった[18]

大学卒業後、趣味を通じて知り合った友人と共にシナリオ制作会社十八VAN PLANNING(後のキャラテックス株式会社)を設立し、シナリオ以外にも週刊誌の記事や玩具の企画などを幅広く手掛けた[16][17][10]。初期の頃は「三条陸」「須田留貧」名義を事務所のメンバー間で使い回していた[22]

1986年、メカデザイナーの大畑晃一からの推薦により、OVA装鬼兵MDガイスト』でアニメ脚本家デビュー[18]。翌年には『コミックボンボン』(講談社)にて、ラジコン漫画『スカイボンバー一直線』の原作者として漫画原作者デビューした[23]

月刊OUT』(みのり書房)では須田留貧名義で、誌上企画や投稿欄などを手がけるライターとして活動。その際に同じ雑誌で別の投稿コーナーを担当していた堀井雄二と親交を持った後、『週刊少年ジャンプ』(集英社)関連の仕事を開始[23]。『ファミコン怪盗芸魔団』のメンバーの一人『げ~ま名人』として[24]ゲーム記事(顔出し出演あり)や[19]聖闘士星矢』『ドラゴンボール』のアニメムック製作に携わる[23]。これが縁で、当時のジャンプ編集の鳥嶋和彦のオファーにより[23]稲田浩司とのコンビで『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』の原作者となる。三条がドラゴンクエストの漫画原作を手掛けるという話に、堀井雄二も「彼ならいいよ」と快諾したという[23]。『ダイの大冒険』の終了後、複数の漫画原作を手掛け、再び三条は稲田浩司とのコンビで『冒険王ビィト』の連載を開始する。

2005年、『ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU』に『冒険王ビィト』のデザイン協力の中鶴勝祥に参加依頼があった際、中鶴は断るつもりで「三条さんを呼んで来るならやる」と答えたところこのオファーに三条は快諾、アニメ脚本家のキャリアを復活させる。元々、三条は『ダイの大冒険』連載中に「某ロボットアニメシリーズの2作目」のシリーズ構成のオファーを、『ダイの大冒険』連載のために断った経緯があり、その後、当時大好きだった『ガイキング』の話が来た際には、喜んで受けたという[23]

2007年、『キューティーハニー THE LIVE』で実写特撮作品に初めて正式に参加[25]。2009年放映の『仮面ライダーW』では、仮面ライダーシリーズ初参加ながらメインライターを務める[25]。同作品を担当した東映プロデューサーの塚田英明との出会いは『魔法戦隊マジレンジャー』の頃からである[25][26]

2013年には『獣電戦隊キョウリュウジャー』にて、スーパー戦隊シリーズに初参加。メインライターを務め、通常はサブライターを加えた数人体制で執筆するところを一人で本編全48話に加え劇場版2本を執筆した[25][27][注釈 4]。これは同シリーズにおいて初のことである。これについて三条は、当初は第18話までと劇場版を連続で執筆することを要望され、『百獣戦隊ガオレンジャー』で武上純希が第18話まで1人で執筆していたことから、第19話まではやろうと考えていたが、その後もプロデューサーに頼まれて執筆し[27]、気がついたら半年がすぎていたという[25]

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人物・エピソード

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作風

  • 『獣電戦隊キョウリュウジャー』のチーフプロデューサーを担当した大森敬仁は、プロットや脚本が指定されたページ数通りであり、構成がしっかりしているため大きな直しも無かったと証言している[37]。『キョウリュウジャー』の監督を務めた渡辺勝也も、テーマが明確であり三条自身の見たいものややりたいことが初稿からわかるため、脚本打ち合わせが1回で終わることも何度かあったと述べている[28]
  • また大森は打ち合わせでは、ストーリーから発想するのではなく、キャラクターや武器の登場のさせ方をどうやったら盛り上げられるかというところから発想していったと証言している[37]
  • 『仮面ライダーW』や『獣電戦隊キョウリュウジャー』で監督を務めた柴﨑貴行は、三条の脚本について構成や設定の取り込み方が巧く、戦いの描写にも個々の特性や必殺技が盛り込まれていて撮りやすいと評している[38]

作品リスト

要約
視点

漫画

特記なきものは原作として参加。

さらに見る 掲載時期, 作品タイトル ...

アニメ

ゲーム

特撮

太字はメインライターを担当した作品。特記なきものは脚本としての参加。

映画

オリジナルビデオ

配信ドラマ

舞台

  • 仮面ライダーフォーゼ ファイナルステージ(2012年)
  • 仮面ライダードライブ ファイナルステージ(2015年)
  • 風都探偵 The STAGE(2022年)脚本監修

小説

ドラマCD

  • ドライブサーガ 仮面ライダーマッハ夢想伝(2016年)

随筆

  • 『三条陸 HERO WORKS』集英社、2023年、ISBN 978-4-08-790117-7
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出演

オリジナルビデオ

  • 仮面ライダーW RETURNS 仮面ライダーエターナル(2011年7月、東映Vシネマ) - スイーツの男 役[42]

テレビ

ラジオ

  • TOKYO M.A.A.D SPIN「ゆう坊&マシリトのKosoKoso放送局」(2023年11月27日深夜、J-WAVE) - 稲田浩司と共にゲスト[45]
  • TOKYO M.A.A.D SPIN「三条陸&サイトーブイのそこそこイイ話」(2024年4月27日 - J-WAVE)※毎月第4土曜日レギュラー。サイトーブイと共演[46]

脚注

参考文献

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