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T-BOLAN
日本のロックバンド (1990-) ウィキペディアから
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T-BOLAN(ティー・ボラン)は、日本の男性4人組ロックバンド。所属芸能事務所及び所属レコードレーベルはB ZONE。1995年までの4年間で1,700万枚というセールスを記録[5]。
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1990年に結成、1999年12月に解散。2012年に再結成[6]、2014年4月26日に活動休止[7][8]。2016年12月31日に豊洲PITにて一夜限りの再結成カウントダウンライブ[9]を開催し、2017年に再始動[10]。
2025年7月10日、メジャーデビュー記念日に行ったファンクラブ限定の配信において、ライブ活動を終了すること発表。同年9月より行われる47都道府県を巡るライブツアーがラストツアーとなる[11][12][13][14][15][16][17][18][19][20]。
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メンバー
ライブサポートメンバー
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来歴
要約
視点
デビュー前
1987年、青木和義(Dr)が森友嵐士(Vo)(当時、東海大学理学部在学)を誘ってT-BOLANの前身となるバンド「プリズナー」を結成。同年11月22日、ビーイング主催の第2回BADオーディション(会場:目黒ライブステーション)でグランプリを受賞。
1988年7月22日、「BOLAN」としてビーイングのインディーズレーベル「YEAH」からEP『I WAITED FOR A TIME』をリリースしインディーズデビュー。ライブ活動を年間100本以上行う。その後、森友は他メンバーとの音楽性の相違により「BOLAN」を脱退し、新たなバンドを複数掛け持ちするなどして音楽活動を続け、その過程で五味孝氏(Gt)、上野博文(Ba)のそれぞれに出会う。森友脱退後のBOLANは、しばらくしてギター(紅谷昭夫)とベース(赤羽浩治)が脱退し活動停止状態となる。
1990年 青木と組む道を再び選んだ森友は、他のバンドでそれぞれ活動していた五味と上野を迎え入れ、「T-BOLAN」を結成。
メジャーデビュー 〜 解散
1991年7月、川島だりあ作詞・作曲、西田昌史(EARTHSHAKER)編曲・サウンドプロデュース(名義:西田魔阿思惟)のシングル「悲しみが痛いよ」でメジャーデビュー。以降、「離したくはない」、「Bye For Now」、「マリア」などがヒット。特に1992年に発売された「Bye For Now」はミリオンヒットを記録している。
1995年、ライブツアー「LIVE HEAVEN '94〜'95」中に、森友は原因不明の発声障害(後に心因性発声障害と判明)を発症。調子が悪い状態が続いていたが、気力に任せるままツアーを決行。最終公演である3月26日大阪厚生年金会館(現・オリックス劇場)大ホールで、森友の状態が限界を越えドクターストップがかかる。ライブ当日の会場で一度は公演中止の発表をするが、待ちわびたファンの盛大な声援に森友をはじめとする全員が立ち上がり遂にライブを強行、大きな成功に導いている。
その後、翌年1996年のシングル「Be Myself/Heart of Gold 1996」を境に新曲を発表することなく活動休止状態となる。活動休止中にリリースされたベストアルバム「SINGLES」がミリオンヒットとなる。
1999年12月、森友嵐士の不調が心因性発声障害によるものであると判明。医師から「原因も治療法も不明の病気である」という診断を受けている。このことが決定打となり、森友からの申し出によってバンドは解散。ベストアルバム「FINAL BEST GREATEST SONGS & MORE」、ライブ・ビデオクリップ集「FINAL BEST LIVE HEAVEN〜LIVE&CLIPS〜」をリリース。また、森友による自伝エッセイ「泥だらけのエピローグ」発売をもってT-BOLANとしての活動を締めくくることとなる。
2001年より森友嵐士はラジオパーソナリティとして活動。五味孝は音楽業界に残り、スタジオミュージシャンとして更に鍛えている。そんな森友・五味とは対照的に、青木和義は岐阜で兼業農家を営みながら路線バスの運転手として勤め、上野博文は配送業で忙しい日々を送ることとなり、この両名は音楽業界から退き一般人として生きる形になっている[21][22]。
2009年11月、森友嵐士、ソロで音楽活動を再開。
再結成
2012年6月、同年秋に、13年ぶりにオリジナルメンバーで再結成を発表[6]。2012年10月4日〜11月29日、「BEING LEGEND Live Tour 2012」16都市18公演をFIELD OF VIEW、B.B.クィーンズ、DEENと共に行う。BEING LEGEND第二弾として2013年3月に行われる「BEING LEGEND 〜Guitar Summit〜」に五味孝が参加。
2014年1月〜2月に、T-BOLANのドキュメンタリー映画を公開[23]。1990年代のライブやドキュメント映像を中心に、現在の彼らの姿も交えて構成[23]。2014年3月8日に大阪・オリックス劇場、3月21日に東京・渋谷公会堂で単独ライブを開催[23]。単独ライブは、1995年3月26日の大阪厚生年金会館大ホール(現・オリックス劇場)以来19年ぶりとなる[23]。2014年3月8日、大阪・オリックス劇場公演にて、4月26日に渋谷公会堂で追加公演を開催することを発表[7]。また、同日のライブをもって活動休止に入る[7]。
2015年3月、上野博文がくも膜下出血で倒れる。根気強くリハビリをこなし1年後には歩けるまでに回復。
2016年、上野のライブ再開を願う声を聞き入れ、メンバー全員で相談、12月31日に一夜限り、豊洲PITにてカウントダウンライブを開催。体調面から上野は4曲のみ参加。サポートとしてベースに人時、キーボードにDIEが参加。
2017年6月より活動再開。2017年8月16日に約21年ぶりの新曲も新録収録するコンセプト・ベストアルバム『T-BOLAN 〜夏の終わりに BEST〜 LOVE SONGS+1 & LIFE SONGS』(2CD+1DVD)をリリース[24][25][26]。
2018年の大晦日に、第2回ももいろ歌合戦(BS日テレ・フジテレビNEXT・ニッポン放送など)へ出場。
2018年9月29日より、24年ぶりとなる全国ツアー「T-BOLAN 30th Anniversary LIVE Tour『the Best』〜励〜」23公演を行う。
2020年2月8日より、全国ツアー「T-BOLAN LIVE HEAVEN 2020『the Best』〜繋〜」を開催。
2021年8月27日に、メンバーの青木和義がT-BOLANでの音楽活動と地元岐阜での家業を両立させていたが、家業を守るため当面の期間T-BOLANの表舞台の活動を休止(レコーディング等は参加)することを発表。
2022年1月24日、28年ぶりのオリジナルアルバム『愛の爆弾=CHERISH 〜アインシュタインからの伝言〜』のリリースを発表[27][28][29][30]。
2022年7月10日、デビュー31周年の節目に全227曲のサブスク解禁を発表[31]。
2023年8月19日より、シングル全曲を披露するシングル・ベストツアー「T-BOLAN LIVE TOUR 2023-2024 “SINGLES” ~波紋~」を開催[32]。8月16日、シングル・ベストツアーの開催前に、全シングル収録のシングルベストアルバム『T-BOLAN COMPLETE SINGLES 〜SATISFY〜』をリリース。
2025年7月10日、メジャーデビュー記念日に行ったファンクラブ限定の配信において、ライブ活動を終了すること発表。同年9月より行われる47都道府県を巡るライブツアーがラストツアーとなる[33]。
同年9月6日、所属事務所を通して上野博文が肺がんステージ4の診断を受け闘病中であることを公表。本人からの言葉で治療の経過は良好であること、今月スタートする全国ツアー「T-BOLAN LAST LIVE TOUR 2025 ‐ 2026 終章 SING THE BEST HIT JOURNEY 47」に参加する予定であること、十年前に倒れた時よりも更に力強く病と闘い続けることを、ファンへ向けたメッセージとしている[34]。
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エピソード
![]() | この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- アマチュア時代のリーダーは青木だったが、実質的なリーダーは森友であった。
- アマチュア時代は原宿ホコ天で演奏していたことがある。
- 青木は森友とバンドを結成する前に、湘南を根城にしたバンド「シェリフ」でレコードをリリースしている。このバンドは女性ヴォーカルのバンドだった。
- T-BOLANのほとんどの楽曲を森友が手掛けているが、オリジナル曲を作るにあたり森友が作詞をすることになったのは「作詞はバンドのボーカルがするものだから」と青木が強く勧めたことによる。森友は数多くの作品を生み出している。
- 「BOLAN」としてメジャーデビューする予定だったが、海外メーカーの服の商標に登録されていて使えなかったため、“T-BOLAN”に改名してデビューした。
- テレビドラマ『ホテルウーマン』(関西テレビ、1991年10月7日 - 12月23日)の挿入歌となった森友の作詞・作曲による楽曲「離したくはない」が有線へリクエストが殺到。ドラマが終わる直前にシングルカットされ、最高位15位でありながらじわじわと長期に渡り売れ続け約50万枚のヒットとなった(ちなみに、このシングルのC/Wには、「Heart of Gold」が収録されている)。
- 「離したくはない」は1stアルバム『T-BOLAN』に収録されているものがオリジナルである。シングルバージョンはオリジナルバージョンと一部歌詞が異なっている。このアルバム以外には、シングルバージョンの歌詞で収録されている。ライブでは1stアルバムバージョンの歌詞で歌った。
- ビーイング所属アーティストが数々の楽曲に参加している。編曲は主に、B'zの編曲をしていた明石昌夫や、アコースティックアレンジでは葉山たけしがサポートした。コーラスでは、大黒摩季、宇徳敬子、川島だりあ等が主に参加している。
- ビーイング所属の中にはライブを行わないアーティストがいたが、T-BOLANはメジャーデビュー以前から盛んにライブ活動を行っており、デビュー後も積極的にライブツアーを行うライブバンドであった。また、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)などテレビ音楽番組にも数多く出演している。
- 『LIVE HEAVEN '94〜'95』ツアー最終日であった1995年3月26日大阪厚生年金会館大ホール公演当日、森友のびらん性の声帯結節によりドクターストップがかかり、協議のうえ森友も他メンバーも渋々ながら一旦受け入れた。ところが、舞台でスタッフがライブの中止および延期の旨を客席に告げたところ、観客から大ブーイングと割れんばかりの森友コールが沸き起こった。これを舞台の袖から見ていた森友は心を動かされ、中止せずにステージに立ちたい思いを他メンバーとスタッフに話しメンバーは同意する。スタッフは反対し、黙ってステージに立たせるわけにいかず制止(止めるスタッフに森友が「離してくれ」と言う大きな声が舞台袖から聞こえひしめきあっていた)したのだが、バンドはスタッフの制止を振り切り舞台に出てライブを行った。このライブは中断されることなく最後までやり終えている。その後、コンサートでのドクターストップなどでの精神的ストレスからか森友は心因性発声障害を引き起こした。このライブを見た者が、ジェイロックマガジン誌に、ボーカリストの体調が万全でない状態でライブを行った(観客は入場料を払った)T-BOLANの姿勢を批判する内容の意見を投稿する。
- 上記の1995年3月26日大阪厚生年金会館大ホール公演を最後にライブは行われていないが、その後シングル「SHAKE IT」「愛のために 愛の中で」「Be Myself」をリリースしている。またオリジナルアルバム制作にもとりかかっていて、リリースに足りるだけの楽曲は揃っていたといわれているが、結局リリースされることはなかった。シングル「Be Myself」以降に発表された新曲は、1999年解散時リリースの「FINAL BEST GREATEST SONGS & MORE」に収録された「SMILE」だけだったが、その後、2010年リリースの2枚組ベストアルバム『LEGENDS』に、デジタルリマスタリングされた「SMILE」と共に未発表曲「満月の夜」が収録された。
- 2006年8月2日。横浜アリーナで開催されたWBA世界ライトフライ級タイトルマッチで森友が国歌独唱をした。
- T-BOLANのインディーズ時代のライブにはB'zとしてデビューが決まっていた稲葉浩志が、ライブ経験を積むために20本以上ゲスト出演し、主に洋楽のカヴァーをセッションをしていた。また、お互い教員免許を持っていた森友と稲葉は[注釈 1]、「もし売れなかったら一緒に塾でもやろう」と話していた。稲葉は、B'zファンクラブ会報Vol.70でこの時のことを回想している。
- 上野は2015年にくも膜下出血で倒れて生死をさまよったが、後に意識を回復した。
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