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織田哲郎

日本の作曲家、音楽プロデューサー、シンガーソングライター (1958-) ウィキペディアから

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織田 哲郎(おだ てつろう、1958年〈昭和33年〉3月11日[3] - )は、日本シンガーソングライター作曲家音楽プロデューサー。ティーズ・コーポレーション所属。

概要 織田 哲郎, 別名 ...

血液型はA型。東京都出身[3]高知学芸高等学校を経て、東京都立大学附属高等学校卒業、明治学院大学文学部入学[4][5]

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人物

1990年代のヒット曲の仕掛け人であり、長戸大幸とともにビーイングの創立に関与する。1990年代に同じくヒット曲を量産した小室哲哉と並ぶ作曲家として知られる。作詞も行う。

経歴

要約
視点

13歳の時に父親(東京大学卒業[6]国鉄職員[7])の仕事の都合で渡英、中学時代をイギリスロンドンで過ごし15歳で帰国[3]。帰国後は両親の出身地である高知県高知市で過ごし、この頃にギターと出会う[3]。幼少時はブリティッシュ・ロックやアメリカンフォークを好んで聴いていた。

高知学芸高等学校在学時には学校内でバンド「ポテトーズ」を結成し音楽活動を行う。後に東京への引越しにともないポテトーズを脱退するが、その際に補充メンバーとして加入したのが後にファイナルファンタジーシリーズで知られることとなる植松伸夫であった。東京都立大学附属高校に転校後は、うじきつよし[注釈 1]北島健二[注釈 2] らと共にバンド活動。

1978年- 「スピニッヂ・パワー」の1stシングル「POPEYE THE SAILORMAN」にコーラスとして参加。

1979年 - 「スピニッヂ・パワー」の2代目ボーカリストに就任、楽曲のほとんどの作曲を手がける。ディスコミュージック路線のバンド「MSマシーン」を結成、シングルを3枚リリースした。このバンドだけ自作曲が無い。長戸秀介(長戸大幸の弟)と、ギタリスト北島健二と共に、プロデュースユニット「WHY」結成[3]。6月にアルバム『WHY』をリリースしデビューした。

1980年 - バンド「織田哲郎 & 9th IMAGE」結成[3]。アルバム『DAY and NIGHT』をリリースしたが、1981年にバンドは解散[3]。その後ソロ活動、事務所を設立。

1983年 - アルバム『VOICES』でCBS・ソニーからソロ・デビュー[3]

1985年 - 新宿ルイードで行われたエフエム東京主催の彩恵津子公開ライブでは提供した楽曲「リーチ・アウト」にコーラスとして参加した。

1986年 - TUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」を楽曲提供したことで作曲家として注目される。

1987年 - TUBEのメンバーや親交のあるミュージシャンからなるスペシャルユニット「渚のオールスターズ」を結成。

1989年 - バンド「TOUGH BANANA」を結成[3]。アルバム『TOUGH BANANA』をリリース。

1990年 - 楽曲提供したB.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」がミリオンセラーを記録[3]。これを皮切りにBeing系の数々のヒット曲・ミリオンセラーを量産する。

1991年 - 西城秀樹の22枚目のアルバム『MAD DOG」は、シングル「走れ正直者」を除く全曲のプロデュースを担当。西城がビーイング絡みで行った唯一のオリジナルアルバムである。

1992年 - シングル「いつまでも変わらぬ愛を」が大塚製薬ポカリスエット』CMソングに起用され、オリコン1位を記録した。

1993年 - ZARDの「負けないで」「揺れる想い」、中山美穂&WANDSの「世界中の誰よりきっと」、DEENの「このまま君だけを奪い去りたい」などミリオンセラーを連発し、オリコン年間チャート作曲家部門にて史上初の年間売上1000万枚超えの新記録を達成、ランキング1位を獲得した[8]

1995年 - ロカビリーバンドMAGICをプロデュース。同年デビューの相川七瀬を筆頭に幅広いアーティストのプロデュース業に従事。

1998年 - ZARDの「息もできない」の作曲制作を最後にビーイングを離脱。古村敏比古(Sax)、小田原豊(Dr)、美久月千晴(B)と「DON'T LOOK BACK」を結成[3]。シングル5枚、アルバム1枚をリリース。古村とは嘗て「織田哲郎 & 9th IMAGE」で共に活動していた。

2000年 - パリ・コレクションのモデルとして、MASATOMOの春夏ファッションショーに出演[9]。観光旅行で訪れたスペインマドリードで強盗に背後からいきなり首を絞められ、現金やカード、パスポートなど全部を盗まれた。声帯を潰された上、声帯まわりの軟骨も変形、元の声が出なくなった。帰国後、フジテレビ『笑っていいとも!』の2度目のテレフォンショッキングにて公にするとニュースとなり世間を心配させた[10]

2003年 - 作曲家としての活動を縮小し、ライブツアー、アルバム制作に集中をする。

2004年 - 相川七瀬の「バイバイ。」がイギリスのポップシンガー・ジェニファー・エリソンに「バイ・バイ・ボーイ」という題でカバーされ、イギリス国内だけで約17万枚のヒットとなった。1996年に作詞・作曲・編曲を手掛けた曲で、イギリスで中学時代にディスコに熱中していた織田は、自身のブログで素直に喜びの意を表明した。

2015年 - ダイアモンド☆ユカイをボーカルに迎え、バンド「ROLL-B DINOSAUR」(ロール・ビー・ダイナソー)を結成[3][11]

2022年 - 1983年に作曲した亜蘭知子の「MIDNIGHT PRETENDERS」を、カナダの大物アーティストであるザ・ウィークエンドサンプリングし、シングルとしてリリースした[12]。この曲「Out of Time」は、同年1月22日付の米・Billboard Hot 100で32位を記録した[13]。これを受けて織田も自身のYoutubeチャンネルで「MIDNIGHT PRETENDERS」をセルフカバーすると共に、国内でも長らくマイナーだった同曲が世界中で親しまれている事を不思議がりながらも、時代を超えて自分の楽曲が支持されている事を嬉しく感じている旨を明かした。

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別名義での活動

1983年、テレビアニメ『装甲騎兵ボトムズ』のオープニングテーマ「炎のさだめ」とエンディングテーマ「いつもあなたが」をTETSU名義で歌った[3]。この曲は以前から付き合いのあったレコーディングスタッフからの依頼で歌っているのだが、発売元がキングレコードだったため契約の関係で別名でのリリースとなった[14]。その際、「(織田哲郎の名前は出せないため)『外国人名など、アルファベットのネーミングで出してくれ』と依頼したはずだが、実際リリースされると(誰が歌ったか簡単に類推できてしまう)TETSUという名前になっていて驚いた」と語っている[15]。なお、『ボトムズ』本編は2000年代にたまたま付けたCS放送で流れているのを見たのが初見で、それ以前は、中島正雄の作曲を受け取って歌ったことがある。

2009年公開の映画「装甲騎兵ボトムズ ペールゼン・ファイルズ劇場版」の主題歌「炎のさだめ2009」(TETSU名義)[16]、2011年公開の映画「装甲騎兵ボトムズ 孤影再び」の主題歌「いつもあなたが2011」を新たにTETSUで再録音して歌っている。2曲とも編曲は織田自ら手がけ(乾裕樹と連名)、2010年12月22日にマキシシングルとしてランティスから発売された。なお『孤影再び』では劇伴曲も提供している。

2011年3月発売のパチスロ『パチスロ 装甲騎兵ボトムズ』(サミー)に楽曲提供。アニメ主題歌である「炎のさだめ」とその新録音版に加え、パチスロ版オリジナルの新規楽曲として「BORN TO FIGHT」(TETSU)、「60億年目のアダムとイブ」(生沢佑一)、「あなたと眠りたい」(Cinnamon)の計5曲が遊技中のBGMとして使用された。新規楽曲は作詞がNON(全曲)とO.K.O(「あなたと眠りたい」以外)、作曲が織田(全曲)となっている。新規楽曲に関してはCDでの発売はされていないが、music.jpなど一部音楽配信サイトで購入可能。

CM等ノークレジットや別名の曲も数多ある。主なものは「TETSU」名義の活動。「Eddy Blues」という別名での活動歴は、1997年4月発売のV6の「本気がいっぱい」、浅岡雄也のソロデビュー・シングル「Life goes on」の作曲を手がけている。

メディア出演

要約
視点

テレビ

ラジオ

  • クリオコート・ワンモアナイト(エフエム福岡)
  • 2005年に「とりあえずテキーラ」でラジオのパーソナリティを務め、アルバム『One Night』収録されている「TONIGHT」、シングル『月ノ涙』のカップリング「End Of Innocence」を披露した。
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エピソード

  • 1990年、テレビアニメちびまる子ちゃん」の初代(第1期)オープニングテーマゆめいっぱいを歌っている関ゆみ子は、いとこであると自身のブログ等[18][19][20] で明かしており、「オーディションで『すごく歌のいい子がいるんだ』というんで、履歴書を見せてもらったら、『この子、俺のいとこなんだけど』。そういうビックリだったんですけどね」[18] とも明かしている。
  • また、高知県の酒造・販売業者の司牡丹酒造の代表取締役社長の竹村昭彦ともいとこであると竹村がブログ[21] で明かしている。
  • 2000年スペイン滞在中に強盗に襲われ、首を絞められ声帯の骨が歪んでしまう。声帯の専門医に「もう声は元には戻りません」とか「治るということはないので、この声に慣れてください」と宣告された。懸命にリハビリを続けても、シンガーとして人前で歌うレベルに回復しなかったが、歌い方を変えて翌年のファンクラブのイベントで披露した際は感無量で涙が出たという。普段は作曲家としての活動が多い織田であったが、この事件以後、改めて歌うことへの情熱を思い出したという[22]
  • 2007年5月に出演したフジテレビDのゲキジョー 〜運命のジャッジ〜』にゲスト出演した際に様々なエピソードを明かしている。
    1. 番組放送時で筒美京平小室哲哉に次ぐ、日本の作曲家別シングル売上第3位。
    2. 数多のミュージシャンに楽曲提供しているものの、提供したミュージシャンに会うことは殆ど無く[注釈 3]、曲を渡した後は深くタッチしなかった。それゆえ、完成した曲も一般人と同じタイミングで聴く。
    3. ヒットした曲は苦労して作ったものは少ない。かつてのインタビューで、「楽曲提供は楽しい。ゲーム感覚でやれる」と発言したことがあった。また楽曲を提供する時は特に何も思わないが、ヒットした曲を聞いた後に「もったいなかった」と感じることはあると正直に告白した。
    4. 中学3年でイギリスから帰国後、帰国子女という事で、孤立し自殺まで考えたが、エルトン・ジョンの『僕の歌は君の歌 (曲)』を聞いて救われた。
    5. 長戸大幸には「たいへん世話になった」と袂を分った今も感謝の気持ちを持っている。デビュー当時全く売れずに悩んでいた織田に「好きにやっていいから」と励ましてくれたことで挫けずに頑張れた、と語った。
    6. 4歳年上の兄がいたが、心臓発作により29歳で亡くなっている。中学時代の兄は通信簿がオール5の優等生で、織田にとっては身近にいる憧れの存在だったという。ところが受験戦争の精神的重圧から引きこもりになってしまい病院に通院していた。織田のヒット曲である「いつまでも変わらぬ愛を」は、一般的にラブソングとして有名だが、実は亡くなった兄に向けて作られたものだった。しかし近年は「聴いた人の捉え方次第。ラブソングとして捉えた人はそれでいいし、メッセージソングとして捉えた人はそれでいい」と織田はインタビューで答えている。
    7. 司会のみのもんたが番組内で「番組のために1曲作って欲しい」と発言。織田は「難しい事に立ち向かうのは嫌いじゃない」と快諾。レギュラー出演者のピーター、研ナオコ、高畑淳子がユニットを組み歌うことで進行していたが、番組は9月に打ち切りとなり未発表となった。
    8. 「♪it's so nice… 桃川〜♪」と流れる桃川(青森県の酒造会社)のCMソングは、織田が無名時代に作詞・作曲・歌を手掛けたもの。曲のタイトルは「It's so nice Momokawa」である。1981年から使われているが、以前は織田が歌うバージョンのCMに加え、歌手と曲調が異なる別バージョンのCMも流れていたという。
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ディスコグラフィー

シングル

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配信限定シングル

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コラボレーション・シングル

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アルバム

オリジナル・アルバム

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ミニ・アルバム

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セルフカバー・アルバム

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ベスト・アルバム

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その他のアルバム

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参加楽曲

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タイアップ

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主な提供曲

あ行

さ行

た行

な行

は行

や行

ら行

わ行

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プロデュースしたミュージシャン

劇伴担当作品

関連項目

脚注

外部リンク

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