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不破郡

岐阜県(美濃国)の郡 ウィキペディアから

不破郡
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不破郡(ふわぐん)は、岐阜県美濃国)の

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岐阜県不破郡の位置(1.垂井町 2.関ケ原町 薄黄:後に他郡に編入された区域 水色:後に他郡から編入した区域)

人口30,837人、面積106.37km²人口密度290人/km²。(2025年7月1日、推計人口

以下の2町を含む。

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町のほか、以下の区域にあたる。

先史~近世

要約
視点

美濃国と岐阜県の西端にある。歴史的には畿内東海道東山道諸国を結ぶ交通・軍事上の要地で、古代には不破関が置かれた。

7世紀に置かれた。初見は『日本書紀斉明天皇6年(660年)10月条にあり、百済から唐の捕虜100余人が献上されたことにつき、「今の美濃国の不破・片県二郡の唐人たちである」とある。今とは書紀の編纂時の8世紀初めを指すので、660年に不破郡があったという証拠にはならない。不破に郡があったことがわかる最古の記事は、天武天皇元年672年である。この年の壬申の乱のとき、6月27日に不破に入った大海人皇子(天武天皇)が郡家の近くで高市皇子の出迎えを受けた。不破は大海人皇子が東国から集めた軍勢の集結地になった。ここでいう郡は書紀が編纂当時の制度にあてはめて書いたもので、はじめは不破評として置かれ、大宝元年(701年)に他の評とともに郡に改められた。

別に、不破郡が当芸郡(多芸郡)から分割されたとする説もある[1]。『古事記』には倭建命が当芸野上に到ったとする記述があり、通説は「当芸野の上」と読むが[2]、不破郡の野上にあてれば野上がかつて当芸に属していたと解すことができる。また、不破氏に伝わる系譜が、壬申の乱の直後に当芸郡から不破郡が分割されたと伝える[3]

先史

  • 縄文土器を使用する。(御祭田遺跡、中野遺跡など)
  • 弥生土器を使用する。
  • 4世紀後半 ‐ 親ヶ谷古墳が作られる。その後、朝倉古墳など前方後円墳がつくられる。
  • 7世紀前半 ‐ 南大塚古墳がつくられる。

古代

中世

近世

  • 1589年 ‐ 伊吹・岩手で太閤検地が行われる。
  • 1593年 ‐ 伏見城築城の用材が表佐湊に陸揚げされる。
  • 1600年 ‐ 関ヶ原の戦いがおこる。関ケ原や垂井が戦の舞台となる。
  • 1600年 ‐ 垂井城(平塚為広の居城)が廃城となる。
  • 1600年 ‐ 竹中重門竹中氏陣屋に居を移す。
  • 1624年~1811年にかけて中山道朝鮮通信使が通行する。(計 9回)
  • 1640年 ‐ 垂井宿関ヶ原宿助郷の指定をされる。
  • 1642年 ‐ 関ヶ原の戦いで焼失した、南宮大社を再建する。
  • 1691年 ‐ 松尾芭蕉が垂井に滞在する。
  • 1729年 ‐ 垂井から美濃路経由でが通る。
  • 1755年 ‐ 垂井宿で大火がおこる。
  • 1760年 ‐ 関ヶ原宿でも大火がおこる。
  • 1827年 ‐ 中山道をラクダが通る。
  • 1830年 ‐ 中山道をヒョウが通る。
  • 1861年 ‐ 和宮が中山道を通過する。
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近代以降

町村制以前の沿革

さらに見る 知行, 村数 ...

町村制以降の沿革

これより先は垂井町関ケ原町を参照。

変遷表

自治体の変遷
さらに見る 旧郡, 明治22年以前 ...


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行政

歴代郡長
さらに見る 代, 氏名 ...

その他

本郡と大垣市のうち旧不破郡の地域では、垂井式アクセントという京阪式アクセントの変種(京阪式アクセントから内輪東京式アクセントへの移行アクセント)が用いられる。

本地域の市外局番は全て0584(大垣MA)である。

脚注

参考文献

関連文献

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