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伊藤庄七
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伊藤 庄七(いとう しょうしち、1918年3月20日 - 1999年3月6日[1])は、愛知県名古屋市[1]出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。
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経歴
中京商業学校では1933年に夏の甲子園へ出場し[1]、中京商対明石中延長25回の試合にもベンチ入りしていた[1]。
高校卒業後は明治大学、社会人野球の大連満倶、愛知産業を経て、1950年に毎日オリオンズへ入団[1]。プロ初年度からチームのパ・リーグ優勝に貢献。セ・リーグ優勝の松竹ロビンスとの間で行われた第1回日本シリーズ(当時の名称は日本ワールドシリーズ)には全6試合に出場。第1戦では1-1で迎えた延長12回表に決勝の2点タイムリーツーベースを放つ。また第6戦の延長11回裏には伊藤のサードゴロを三塁手の真田重男がニ塁へ送球したが送球を受けようとした二塁手の金山次郎と一塁走者の別当薫が交錯し金山が落球、これを見た三塁走者の呉昌征がホームイン、毎日がサヨナラ勝ちし初代日本一に輝いている。
1951年からは正右翼手に定着し第1回オールスターゲームへ出場[1]。同年はリーグトップとなる28二塁打を放ったほか、リーグ6位の打率.303を記録[1]。
1953年シーズン途中に東急フライヤーズへ移籍[1]。移籍後も正右翼手として活躍するが中日ドラゴンズへ移籍した1955年限りで現役を引退[1]。
引退後は、日本短波放送「プロ野球ナイトゲーム中継」解説者(1956年 - 1961年)を経て、阪急ブレーブスで一軍コーチ(1962年 - 1964年)を務めた。その後は中部日本放送解説者(1966年 - 1967年)[1]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 東急(東急フライヤーズ)は、1954年に東映(東映フライヤーズ)に球団名を変更
記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1951年)
背番号
- 1 (1950年 - 1953年途中)
- 2 (1953年途中 - 1954年)
- 5 (1955年)
- 40 (1961年 - 1964年)
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関連情報
出演番組
※CBC解説者として出演していたプロ野球中継番組(タイトルは2011年現在)。
- CBCドラゴンズナイター(CBCラジオ)
- 侍プロ野球/燃えよドラゴンズ(CBCテレビ。前者はTBS系列全国ネット、後者はCBCローカルのタイトル)
脚注
関連項目
外部リンク
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