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中部日本放送

日本の愛知県名古屋市中区の認定放送持株会社 ウィキペディアから

中部日本放送
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中部日本放送株式会社(ちゅうぶにっぽんほうそう、: CHUBU-NIPPON BROADCASTING CO., LTD.[2])は、日本認定放送持株会社。本社所在地は愛知県名古屋市中区新栄。略称はCBC[2] で、放送局の分社化後も傘下の特定地上基幹放送事業者とその略称を共用している。CBCテレビCBCラジオなどを傘下に持つ。

概要 種類, 機関設計 ...

名古屋市に本社を置く放送事業者では唯一、名証プレミア市場[注釈 2]上場しており、名古屋証券取引所プレミア市場単独上場銘柄である。

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概要

1951年昭和26年)9月1日に、日本で最初の民間ラジオ放送局[注釈 3] として開局。同時にこれまで日本放送協会(NHK)が独占的に放送を行ってきた時代が幕を閉じ、日本の民間放送の草分け的存在となった放送局である。1956年(昭和31年)12月1日テレビジョン放送を開始し、ラジオ・テレビ兼営局となった。系列新聞社中日新聞社で、社名も創立当時の中部日本新聞社に因んだといわれている。

中部日本放送は1950年(昭和25年)、中部日本新聞社(現:中日新聞社)が名古屋商工会議所中部地方の財界と連携して設立計画を進め、松坂屋(現:大丸松坂屋百貨店)の社長を務めた第16代伊藤次郎左衛門(伊藤祐茲)が設立発起人総代に就任し、当時松坂屋の副社長であった佐々部晩穂が初代社長に就任して設立された。佐々部は当時松坂屋が経営していた伊藤銀行の副社長だった1941年(昭和16年)、伊藤銀行と愛知銀行名古屋銀行の3行を合併して東海銀行(現:三菱UFJ銀行)を発足させた経緯があった。中部日本放送創立事務局の実行委員会には中部日本新聞社と松坂屋、東海銀行、中部電力東邦瓦斯名古屋鉄道豊田自動織機が参加した。

2013年平成25年)4月1日、ラジオ部門がCBCラジオへ、2014年(平成26年)4月1日、テレビ部門がCBCテレビへ分社化され、認定放送持株会社となる。これはキー局以外の、いわゆる地方局では初の試みとされている[3]

またロサンゼルスに海外支局を設けており、現在の支局長は尾関淳哉である[4]

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沿革

要約
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創業当初の社屋
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CBCラジオ長島送信所(三重県桑名市)
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CBC放送センター(名古屋市中区)

開局当初の動き

開局数日前、小嶋源作は全社員に『これから我々は、NHK島に敵前上陸を敢行する。NHKの牙城に迫る民放の第一陣として、その使命は重い。諸君はこの決意で邁進されたい。』と鼓舞激励した[27]

CBCは名古屋の放送局であるが、開局段階から放送番組に関しては東京との結び付きが不可欠とされていた。したがって、CBCでは東京のキー局を求めることとなったが、中日新聞と競合する朝日新聞毎日新聞の系列局では具合が悪かったため、当時名古屋に進出しておらずかつ中日と編集協定を結んでいた読売新聞と手を携えることとした[注釈 20]。こうして読売を母体に読売放送(略称・YBC)が設立され、開局を目指したが結局ペーパーカンパニーに終わり、一切はラジオ東京(JOKR。現在のTBSラジオ)に統合された。このためCBCもラジオ東京をキー局とする事となった。また、そのことがきっかけでザ・ビートルズの来日公演を読売新聞と共同主催することとなった。

上記と矛盾するようではあるが、昭和30年代の一時期、『朝日新聞ニュース』『毎日新聞ニュース』の放送を行っていた(名古屋テレビ開局とともに終了)。これは#中日ドラゴンズとの関係の項目で触れた東海テレビ開局時の様々な問題がこじれたことによる副産物である。つまり、中日とはドラゴンズの独占中継権を得ていたのが東海テレビも割り込む形で中継権を得ることとなり、CBCと中日との関係が複雑になったためと、元々朝日・毎日の2社ニュースをメインとする予定であった東海テレビが結局中日ニュースをメインとして放送することに決めたので、両社は抗議の意味でCBCにニュース放送の申し入れを行ったところ、既述の通りCBCは中日との関係が複雑となっていたこともあってこれを了承したため。

浜松放送局を開設しようとして、地元・静岡放送(SBS)と競合した。

その他中部地区のラジオ・テレビ各局各局の開設に伴い、以下の支援を行っている。

  • 信濃放送→信越放送(SBC)は創業時出資状況が芳しくなく、地元・信濃毎日新聞の支援も期待できなかったことから代わりにCBCが支援の手を差し伸べることとなり、当時はCBC番組を直接受信し、そのまま中継しようと検討していた。
  • 北日本放送(KNB)も先行きが不安であったことや、戦前から中日の母体である新愛知名古屋新聞が北陸に進出していた関係で、CBC首脳陣とKNB首脳陣にも交流があったためCBCがKNBに一部出資を行っていた。
  • 福井放送(FBC)は開局直後に経営が悪化。地元・福井新聞とは無関係であったことから、CBCは中日新聞とともにFBCの支援に乗り出すこととなり契約締結まで漕ぎ着けたが、その後FBCの経営権を握った加藤ビルディング一派により契約は解除され、CBCと中日新聞は撤退。その代わりにFBCは福井新聞と関係を結んだ。
  • 三重県の県域局・ラジオ三重(RMC)は経営難から中日新聞が支援に乗り出したが、中日はCBCに対しラジオ三重への支援を要請。CBCの電波料を増額し、増額分をラジオ三重へ付け回すように指示した。別エリアにあるネット局に対するのならともかく、同一エリア内の競合局に対するこの行為はスポンサーへの背信となるためCBCは拒絶。それでも中日への義理を果たすため、以降営業支援金が毎月一定額CBCからラジオ三重へ送金されていた。なお、このラジオ三重は近畿東海放送(KTB)を経て、1959年(昭和34年)に岐阜のラジオ東海(RTC)と合併。現在の東海ラジオ放送(JOSF)となっている。
  • チューリップテレビ(TUT)には、CBCが設立当初から出資を行っている。また、CBCは同局の3.00%の株を保有する主要株主でもある。

鉄道無線を利用した鉄道放送を企画。長距離列車の乗客を対象として需要があると判断。当時の運輸省(現在の国土交通省)へ積極的に働きかけたが、実現には至らなかった。なお、鉄道無線を利用したラジオ放送は、ラジオ関東(JORF、現在のラジオ日本)が1958年(昭和33年)12月から1964年(昭和39年)までの朝夕のラッシュ時に東急東横線急行電車車内にて同社ニュース番組を放送する形で実現している。

CBC放送会館火災

1969年(昭和44年)5月5日昼、CBC会館で火災が発生し、地下1階の機械室、地上1階のテレビ主調整室・放送機器室、2階のテレビ送出用電算機室が焼けた[28]。このとき真っ黒に焼け焦げたテレビマスターの写真が社史に掲載されている。

この影響でテレビは約1時間17分停波したが、ラジオは奇跡的に停波せずに放送を継続した。CBCは車庫から中継車を出してテレビ塔に横付けして短いニュースなどのミニ番組スタジオ兼臨時マスターとし、東京や大阪からの回線の番組をそのまま放送波に乗せることで放送を再開した。このため、関東・関西ローカルのCMがそのまま流れる事態も起きたが、通常番組の大半はほぼ通常通り放送された[29]

その後テレビは復旧作業を急ぐため、同日の深夜放送を23時35分で打ち切りとした。休止の旨と放送終了時の局名告知のアナウンスは生放送で行われた。

火災の時系列
  • 同日は会館の空調設備の入れ替え工事が行われていた。
  • 午後2時頃 - テレビ主調整室から異臭が見られ、ダクトから白煙が出ていたことが分かる。この頃地下の空調室で溶接が行われていた中、埃に引火し火災が発生したものと見られている。ワイドショー『この街は この風は』の放送が中断[28]
  • 午後2時45分頃 - テレビ主調整室から黒煙、本格的に炎上。テレビの映像部分が停止。
  • 午後2時50分頃 - 名古屋市消防本部から消防隊出動。
  • 午後3時05分頃 - テレビの音声部分が停止。
  • 午後3時10分頃 - 放水が始まるが、出火場所はまだ特定できなかった。
    • この間、スタッフはテレビ塔近くに中継車を横付けし、テレビ放送の特設放送会場を設置。
  • 午後4時過ぎ - テレビ放送再開。火災の詳細を伝え、「視聴者・市民にご迷惑をかけました」と謝罪。
  • 午後5時頃 - 地下を破壊しての放水活動を開始。
  • 午後5時30分頃 - 必要最低限の人員を除き、その場を退去するよう命令(全員退去命令)。そのため、放送を継続していたラジオは、暫定的に1階のラジオ準備室に特設会場を設けて放送を続ける。
  • 午後8時前 - ラジオ放送を鳴海送信所に暫定移転するために一時中断し、フィラーとしてレコード音楽を放送。
  • 午後8時30分過ぎ - ラジオ放送、鳴海送信所の特設スタジオでの放送開始。
  • 午後9時過ぎ - 出火場所が2階にあるテレビ調整室であったことが判明。
  • 午後11時35分 - テレビ放送を臨時に打ち切り。5月6日6時55分から再開する旨をアナウンスする。
  • 午後11時50分過ぎ - 鎮火。
  • 5月6日 - 復旧工事が終わり、通常のスタジオからの放送を再開。

コールサインの変遷

さらに見る 期間, ラジオ ...
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社史・記念誌

  • 東海の虹[注釈 21]中部日本放送十年史 - 1960年12月発行、689ページ[30]
  • 二十五年の歩み 中部日本放送 - 1975年12月15日発行、119ページ
  • 三十年の歩み 中部日本放送 - 1980年12月発行、157ページ
  • 中部日本放送50年のあゆみ - 2000年12月発行、459ページ。
  • CBC60年の軌跡 - 2011年発行、DVDのみ。
  • CBC70年の軌跡 - 2021年発行、DVDのみ。

本社

要約
視点

愛知県名古屋市中区新栄1-2-8 郵便番号460-8405

アクセス:名古屋市営地下鉄東山線新栄町駅」より徒歩約5分。栄駅地下鉄)または栄町駅名鉄瀬戸線)及び栄バスターミナルオアシス21)からは徒歩約10分。

2013年(平成25年)1月22日の年頭記者会見で本社地区の再開発を発表[31]、3期に分けて工事を進めている。これが完了することにより、「放送送出機能」と「編成営業機能および本社機能」の一体化、建物の維持費などの効率化、点在するグループ企業の社屋集約が図られることになる。

  • 第1期:放送センター南東部の隣接地に増築棟を建設、2013年(平成25年)3月に着工し、2015年(平成27年)8月に竣工、CBC会館と放送センターで分かれていた部署を一ヶ所に集約して同年10月15日より業務を開始した。なお35,000リットルの燃料備蓄タンクを2台設置することで、停電時の放送継続日数を5.58日にまで延長している[32]
  • 第2期:2015年(平成27年)よりCBC西別館を解体し新築工事を実施、2016年(平成28年)に完成した後はグループ企業を新ビルに集約する。
  • 第3期:2020年(令和2年)以降にCBC会館の大規模改修工事に着手。2018年(平成28年)3月27日の定例会見で明らかにされた物で、当初は老朽化から解体も検討されていたが、最終的にスタジオ使用を前提として今の形を保ったままリニューアル工事を行うことになる[33]2022年(令和4年)4月に工事完了[7]

本社周辺環境(五十音順)

支社・支局

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CBC東京総局(千代田会館7F)(東京都千代田区)

閉鎖した支局

  • ローマ支局(JNN海外支局の一員):1974年12月に開設、1990年に東欧情勢の変化によりウィーンに支局を開設したことに伴い閉鎖[35]
  • ウィーン支局(JNN海外支局の一員・中日新聞との共同運営):2010年9月に閉鎖[7]
  • 静岡支局:2005年(平成17年)3月31日をもって廃止。

連結子会社

2023年4月1日現在[36]

※ かつての関連企業として、PCMセントラルがCS-PCMラジオ局を運営していた。また、同じくかつての関連事業にタクシー会社の文化交通があるが、2022年6月29日に大阪バスに売却している。[26]

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資本構成

要約
視点

企業・団体の名称、個人の肩書は当時のもの。出典:[37][38][39][40][41] 

2023年3月31日現在

出典:[42][43]

さらに見る 資本金, 発行済株式総数 ...
さらに見る 株主, 株式数 ...

上記に記載されていないが、岡谷鋼機東邦瓦斯TBSホールディングス日本碍子及びJ.フロント リテイリングの子会社である大丸松坂屋百貨店との資本的関係がある。また、中部日本放送は、J.フロント リテイリング、TBSホールディングス、中部電力及び三菱UFJ銀行の持株会社である三菱UFJフィナンシャル・グループの株式を保有している[44][45][46][47]

過去の資本構成

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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