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伊藤隆偉
日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから
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伊藤 隆偉(いとう たかひで、1963年〈昭和38年〉10月21日 - )は、愛知県北設楽郡東栄町出身の元プロ野球選手(投手・右投右打)[1]。
NPB時代は主にパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の阪急ブレーブス(→オリックス・ブレーブス→オリックス・ブルーウェーブ)でプレー。先発・リリーフの双方で起用され[3]、1995年にはオリックスのリーグ優勝に貢献したほか[4]、1997年には先発投手として10勝を挙げた[5]。
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来歴・人物
要約
視点
プロ入り前
中学で野球を始め、愛知県立本郷高校3年の夏は愛知大会5回戦で敗退[6]。高校卒業後は社会人野球の東海理化に入団し、1985年の都市対抗大会に補強選手で出場した[7](登板はなし)[8]。社会人時代はほとんど無名だったが[7]、1987年のドラフト会議で阪急ブレーブスから4位を受けて入団[2][6]。契約金は3,800万円、プロ1年目(1988年)の年俸は420万円(いずれも推定額)[7]。
NPB時代
1988年は即戦力として期待された[7]が、同年は一軍では登板できず、二軍(ウエスタン・リーグ)で12試合に登板(先発登板は6試合/3勝3敗・防御率5.95)したのみで終わった[9]。ドラフト同期の伊藤敦規・山内嘉弘に先を越される格好となった。
1989年(推定年俸470万円)シーズン[9]は一軍で34試合に登板(うち先発5試合・リリーフ29試合)して3勝4敗2セーブ・防御率4.46の成績を残し、同年オフには年俸が940万円(推定)に増額された[3]。
1990年はチーム最多となる48試合に登板(うちリリーフ45試合)し、26試合で交代完了して首脳陣からの信頼を得た(同年は1勝3敗6セーブ・防御率4.72)[10]。同年には東海理化時代に職場で知り合った5歳年下の女性と婚約し、同年12月に挙式[11]。
1991年シーズン(推定年俸1,600万円)[10]は中継ぎ投手として活躍し、28試合に登板して1勝0敗2セーブ(防御率4.90)の成績を残した[12]。
1992年シーズン(推定年俸1,600万円)[注 1][12]は抑え投手として8セーブポイントを挙げた[13]。
1993年シーズン(推定年俸2,040万円)[13]も野村貴仁とともに抑えとして活躍し、チーム最多の16セーブ(17セーブポイント)を挙げた[14]。この2年間では高い奪三振率を記録し[注 2]、防御率も2点台と安定した成績を残していた[注 3][14]。
1994年シーズン(推定年俸3,500万円)はリリーフのみで29試合に登板し、3勝2敗4セーブ(防御率3.40)の成績を残した[15]。
1995年シーズン(推定年俸4,000万円)は本格手に先発に転向し自己最多となる85投球回数・6勝を記録し、オリックスのリーグ優勝に貢献[4]。また、同年6月25日の対日本ハムファイターズ戦ではプロ初完封勝利も記録した[4]。
1996年シーズン(推定年俸4,000万円)は後半戦から戦列に合流[16]。一軍戦ではわずか3試合の登板(未勝利)に終わったが、日本シリーズでは3試合で救援登板して6イニング無失点と好投し[16]、日本一を決めた第5戦では勝利投手にもなった[17]。
1997年シーズン(推定年俸3,200万円)[16]は開幕こそリリーフでスタートしたが、4月20日から先発ローテーションの一角を担った[注 4]。4月11日の対福岡ダイエーホークス戦で2年ぶりに勝利投手になり、5月6日の対千葉ロッテマリーンズ戦では完封勝利を記録[注 5][5]。また7月 - 8月には5連勝を記録[5]し、タフィ・ローズ(近鉄バファローズ)とともに同年7月のパ・リーグ月間MVPに選出された[18][19]。同シーズンは初の2桁勝利となる10勝を挙げ[5]、規定投球回にも到達した(パ・リーグ投手成績11位)[20]。
1998年は年俸5,500万円となったが、同シーズンは開幕から4連敗し、5月31日の対西武ライオンズ戦で初勝利を挙げたが、シーズンを通じて負け越した[21]。
1999年シーズン(推定年俸4,600万円)は佐藤義則の引退によりチームの投手陣で最年長となったが[22]、同シーズン途中(6月8日付で発表)に柳沢裕一との交換トレードで読売ジャイアンツ(巨人)に移籍した[23][24]。背番号は23[25]。なお、このトレードから7年後の2006年11月6日に谷佳知と鴨志田貴司・長田昌浩の交換トレードが行われるまでの間、オリックスと巨人の間での交換トレードは行われていなかった[26]。しかし移籍後に持病の左膝痛が再発し、またアイシング時のアレルギーもあってアイシングができず[27]、二軍でも登板はなく[6]、同年10月3日に巨人から戦力外通告を受ける[28]。同年12月2日付でプロ野球コミッショナー事務局から自由契約選手として公示され[29]、横浜ベイスターズの入団テストを受けたが[30]、入団はできなかった。
引退後
2000年は台湾大聯盟 (TML) の台中媚登峰金剛でプレーし、同年限りで現役引退。引退後、2013年以降は西浦温泉観光協会(愛知県蒲郡市)で事務局長を務め、送迎バスの運転やイベントの調整、観光案内などを行っている[31]。
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選手としての特徴
フォークボールが武器で、速球には威力[7]やキレがあった[32]。現役時代はストレートと落差の大きいフォークで、毎年のように投球イニング数に近い奪三振数を記録していた[32]。
詳細情報
年度別投手成績
表彰
- 月間MVP:1回 (1997年7月)
記録
- 初登板・初勝利:1989年4月11日・対ロッテオリオンズ戦(川崎球場)、2回1死から救援登板、5回1/3無失点
- 初セーブ:1989年4月19日・対福岡ダイエーホークス戦(平和台野球場)、6回から救援登板、4回1失点
- 初完投・初完封:1995年6月25日・対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)、被安打3・奪三振8・四死球4
背番号
- 26 (1988年 - 1999年途中)
- 23 (1999年途中 - 同年終了)
- 17 (2000年)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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