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北軽井沢
群馬県長野原町の大字 ウィキペディアから
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北軽井沢(きたかるいざわ)は、浅間山北麓の一帯に位置する群馬県吾妻郡長野原町の大字にある避暑地。郵便番号377-1412[2]。面積は50.26km2[4]。
軽井沢町の北端に位置する北軽井沢は、別荘地や宿泊施設、農園や直売所、レジャー施設が点在し、四季折々の自然景観や温泉地として多くの観光客を惹きつける。
浅間山の雄大な自然に抱かれるこの地は、大正から昭和にかけて、東京大学や法政大学の学者をはじめとする知識人・文化人が山荘を構え、討議や交流を重ねた歴史を持つ。こうした背景から北軽井沢は独自の文化サロンの性格を帯び、今日に至るまで知識人の別荘文化の記憶を宿す土地として、鄙びた避暑地でありながらも文化的な香気を漂わせる静かな魅力を持つ。別荘地として独自の由来があり、その歴史も軽井沢全域で旧軽井沢に次いで古く、北軽井沢大学村を中心とした文化的な文脈が色濃いことが大きな特徴だ。
地域の産業は観光業を中心に、農業・林業・製造業が共存している。明治初期に馬の放牧場として開設され、戦後に群馬県へ移管された浅間家畜育成牧場(浅間牧場)では、早くから乳牛が導入され、酪農が発展した。そこで生産される乳製品は風味豊かで人気が高く、特産品となっている。
土壌は浅間山の黒い火山噴出物に由来し、レタスやキャベツなどの高原野菜やトウモロコシの栽培に適している。これらはアジア系の技能実習生の労働力を得て営まれ、地域農業を支えている。また、広大なカラマツ林や、秋に紅葉の美しさを見せる雑木林など、多様な山林景観もこの地の特色である。
北軽井沢の開発は、皇族にゆかりがある。1882年(明治15年)に、現在の浅間牧場を含む広大な牧場開発に着手し、荒地を農場に変え、北軽井沢の発展の基礎を築きあげた北白川宮能久親王は、北軽井沢の祖とよばれ、牧宮神社に祀られている。現在の北軽井沢大学村は、北白川宮家の所有地を草津軽便鉄道株式会社に払い下げられ、その後、法政大学学長であった松室致が別荘地として開村した。[5]
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地理
長野原町の西南部に位置し、浅間山の北東に広がる六里ヶ原の一画にある。
北で同町応桑、東で浅間隠山の北稜を隔てて東吾妻町須賀尾、南東で高崎市倉渕町川浦(旧・倉渕村川浦)、南で長野県北佐久郡軽井沢町長倉、西で嬬恋村鎌原と接する。なお「北軽井沢」という地名は長野原町の大字の範囲を越え、嬬恋村側を含むかなり広い範囲で使用されている。
気候
標高1,000m - 1,400mに位置し、夏は冷涼、冬は酷寒で亜寒帯湿潤気候に属する。冬は最低気温がマイナス20度以下になることも珍しくないが、日本海側気候でないので積雪量は比較的少ない。南側の軽井沢町内旧軽井沢周辺にあるような独特の湿気も少ない。
- 浅間牧場
特徴
要約
視点
*軽井沢町に臨接し、またその名がついていることもあり、バブル期には軽井沢の一部として軽井沢町内同様に不動産価格が高騰した。その後価格は下落したが、コロナ禍にリモートワークが促進し、都心と北軽井沢の二拠点居住を構える人が増え、軽井沢よりも涼しく自然が豊かで雄大な景色が堪能できる北軽井沢が昨今は見直され始めた。ライフスタイルや体験価値を売る最先端の事業モデルである NOT A HOTELや北軽井沢スイートグラスなど、森に棲むライフスタイル提案型リゾートが都心の家族層に評価される体験型ホスピタリティリトリートとして、全国的にも存在感を増し、北軽井沢が再注目されている。
*モーターサイクルスポーツの発祥の地。浅間火山レース(全日本オートバイ耐久ロードレース)が1955年から1959年に日本初の本格的なロードレースとして実施された。当時の日本では初めての本格的なオートバイレースで、多くの国産バイクメーカーが技術を上げ、世界の技術レベルに追いつくきっかけとなり、北野元、高橋国光、伊藤史朗など、後にロードレース世界選手権や4輪レースで活躍する多くの選手を輩出した。
*開拓以来の農家が点在し、広大な農場や牧場が広がる北軽井沢には、クラインガルテン(滞在型市民農園)も見られる。戦後、満州からの引揚者が北軽に入植して苦労を重ねた開拓は、やがて広大な野菜農園へと発展し、現在の担い手は3代目から4代目にあたる。
1950年頃には、開拓村の一軒の農家で北軽井沢大学村の住民がヤギの乳を買い求め、土間で白菜漬けが振る舞われるといった個別の交流や物々交換もあった。夏の間は採れたての野菜を籠に背負って大学村を巡回販売し、貴重な現金収入となっていたのである。
農家による北軽井沢大学村への高原野菜の巡回販売は、固定的な需要を背景に競争原理が働き、供給を促した典型的なDemand Side経済の先駆例といえる。その中で野菜運搬の機材や方法は、背負い籠から自転車、リヤカー、耕運機、軽トラックへと進化し、標準化と競争がさらなるイノベーションを促したことは、まさに経済学の教科書に描かれる実証そのものであった。
やがて2000年代に入ると巡回販売は姿を消したが、開拓村は大規模農場へと成長し、立派な家々が建ち並ぶようになった。戦後から今日に至るまで、北軽井沢駅周辺の商店、開拓村、北軽井沢大学村が互いに支え合った歳月が、今の北軽井沢の姿へとつながっている。
*大規模な商業施設はなく、未開発の原野や未舗装道路も残されているため、夏季は軽井沢に比べて清涼感がある。
*森のキャンプ場や私有地の森に自然と調和したデザインのツリーハウスが複数点在し、ツリーハウスで地方創生を試みるプロジェクトがある。北軽井沢の秋の森は、鮮やかな黄色で包まれて中世の絵本の世界のような景色になる。
*周囲に中高層の建物や大型商業施設がないため、天の川が見えるほど、星が美しく見えるのも大きな特徴である。
*森にはリスや鹿を見ることがある。
*苔庭が美しく保たれている別荘や住宅があり、夏季の霧が多様な苔を生む。
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歴史
要約
視点




1882年(明治15年)、殖産興業、富国強兵により洋服の需要が増えたことから、綿羊の供給地として、また軍馬の養育地としてこのあたり一帯が選ばれ、大日本農会の会長だった北白川宮能久親王が放牧場「浅間牧場(吾妻農林牧場)」を開設したことにより、北軽井沢の開墾は始まった。
明治維新で職を失った武士の救済策のひとつとして、ここに旧館林藩士たちが開拓移民として入植した。
1895年(明治28年)北白川宮没後に一帯の土地が民間に払い下げられ、分割されて草軽電鉄や亀沢牧場、現在の浅間牧場などの所有になった[6]。
1909年(明治42年)、草軽電気鉄道の前身となる「草津興業」が発足。同社はスイスの登山電車のように高原や温泉へ避暑客・湯治客を運ぶとともに、貨物輸送を行って地域の発展を図ろうとする趣旨から創立された。
1913年(大正2年)、軽井沢駅に隣接する新軽井沢駅から旧軽井沢駅(開業時は旧道駅)・北軽井沢駅(開業時は地蔵川駅)を経由して草津温泉駅に至る軽便鉄道の敷設に着手し、1915年(大正4年)には小瀬温泉まで、 1918年(大正7年)には北軽井沢駅まで開業。
1926年(大正15年)には草津温泉まで55.5kmに及ぶ高原鉄道が全線開通した。路線の延伸と並行して沿線地域が次々と開拓され、沿線の避暑地として軽井沢町内・北軽井沢・草津温泉の三つのエリア分けが行われていた。大正末期から昭和初期にかけて大学関係者の別荘地が次々造られたことで、北軽井沢駅周辺の環境も整備されていった。
旧館林藩主の秋元子爵家が別荘を建てたことを嚆矢として、避暑のための別荘地として売り出されるようになった。
1923年(大正12年)、旧制第一高等学校(東京帝国大学の予科)の同窓生らの団体「一匡社」が、草軽電気鉄道の勧めにより会員や家族の保養のために応桑に「一匡村」と称する共同名義による山小屋風の別荘群を建設・運営した。一匡村は後の別荘地のようなレジャー用の分譲地ではなく、食事・風呂等は共同、勉強会を開くなど、自給自足的な生活を送る場であったが、避暑地北軽井沢の別荘地の歴史の始まりであった。
1927年(昭和2年)にはこの付近に広大な土地を所有していた法政大学学長松室致が、自身が所有する土地を学者・文人・芸術家らに分譲し、政治家・財閥・華族等のエスタブリッシュメント向けではなく文化人向けの静謐な保養地・避暑地を創設することを発意。
これに賛同した野上豊一郎や安倍能成ら夏目漱石門下の文化人らとともに別荘地「法政大学村」(現北軽井沢大学村」、通称「大学村」)を開いた。
元々この辺りは「地蔵川」という地名であったが、「大学村」が避暑地・別荘地として当時から著名であった「軽井沢」(長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢)の北に位置することからこの地を「北軽井沢」と呼び始めた。それに倣うように草軽電気鉄道の駅名も、1927年(昭和2年)に「大学村」の寄贈により駅舎を改築したことから、その際に「地蔵川駅」から「北軽井沢駅」(旧北軽井沢駅舎は現存、下記参照)へと改称された。駅舎正面の欄間には、「大学村」の開村に関わりの深い「法政大学」の頭文字である“H”が刻まれている。
1933年(昭和8年)、伏見稲荷神社建立。その後、1947年(昭和22年)に、北白川宮能久親王、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)の霊を迎え、神社名を北白川親王にちなんだ牧宮(まきのみや)神社へと改称。本殿は茅葺屋根。
北軽井沢の祖である北白川宮は、陸軍軍人として多大な功績があり、日清戦争で台湾に出兵し、現地で病気にかかり薨去。その武勲を讃え、台北には宮を祭った台湾神社(台湾神宮)、終焉の地には台南神社が創建され、敗戦後に台湾の神社はすべて廃社となり、当時の氏子総代と神官が協議の上、北軽井沢の地に御霊を迎え、北白川宮の遺徳を永く偲ぶことになった。氏子は北軽井沢一円。
1960年(昭和35年)4月に、新軽井沢 - 上州三原間の草軽電気鉄道が廃止された後も、「北軽井沢」の駅名は草軽交通のバスターミナル名(現在はバス停のみ)に継承され、地名として定着していった。
第二次世界大戦後、農地解放が行なわれると、満州や蒙古からの引揚者が浅間山麓周辺に多く入植し、農地や牧場へと開拓されていった。1948年(昭和23年)には開拓農協が作られ、1951年(昭和26年)には、日本初のオールカラー映画『カルメン故郷に帰る』のロケ地にもなるなど、農業地として、観光・保養地として人気を集めるようになった[6]。
終戦直後に一部地域が開拓され、トウモロコシやトマト、レタス、白菜、ブルーベリーなどが特産。町中の至る所に高原野菜の直売所がある。
軽井沢町内にも「南原会」文化村など学者や文化人が集まる別荘地が昭和時代初期からあるが、「大学村」は軽井沢町内のような大手資本・開発業者による別荘地ではなく、創設から大学関係者が関わっていたため知識人による進歩主義的な気風を帯び、彼らが組合を作って自治を行っていた。
このためその後も岩波茂雄、田邊元、野上弥生子(野上豊一郎の妻)、谷川徹三、吉田健一、芥川比呂志・芥川也寸志兄弟、岸田國士・岸田今日子父娘らが別荘を構え、リゾート地として繁栄していった軽井沢町内の喧騒とは一線を画した空間が成熟していった。現代においても大江健三郎や谷川俊太郎は夏の間創作活動を「大学村」の自身の別荘にて行っていることを公にし、晩年まで北軽井沢大学村組合の運営にも関与していた。
「大学村」以外においては、軽井沢町内のリゾート開発と同様、西武・東急など大手資本が既に大正時代からこの地にも目を付け、別荘地開発を行い、戦後は三井不動産が大規模開発を手掛けている。
長野原町の成立後は、同町大字地蔵川、または大字地蔵堂、大字応桑大屋原などとなったが、「北軽井沢」という名称が旧北軽井沢駅舎付近を中心に、鬼押出し園や浅間園のある嬬恋村東南部等も含めた総称として使われてきた経緯もあり、長野原町の正式な字名となり全国的に愛用される地名となった。
1970年代以降はリゾート地として開発され、大型施設が建設された。。
1980年代の別荘ブームの進展とともに、磯村建設をはじめとする新興デベロッパーが投機目的の物件を販売し、乱開発の様相を呈する時期もあった。さらにバブル期には紀州鉄道など後発企業も参入し、大規模ホテルやゴルフ場リゾートマンションが相次いで企画されたが、大学村村民や文化人から自然協定を開発者に強く申し出る運動が展開され、全ての計画が建築として成立せずに、一部のみ建築された。
軽井沢町内と異なり、バブル崩壊後は大規模開発の波が沈静化。その結果、北軽井沢は過度な観光地化を免れ、旧来の避暑地・開拓地としての素朴な趣を守り続けている。
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世帯数と人口
- 2015年 684世帯 1595人
- 2016年 692世帯 1579人
- 2017年 714世帯 1574人
- 2018年 710世帯 1572人
- 2019年 712世帯 1569人
- 2020年 732世帯 1567人
- 2021年 750世帯 1560人
- 2022年 800世帯 1598人
- 2023年 816世帯 1614人
- 2024年 837世帯 1620人
- 2025年 824世帯 1575人
別荘住まいで、住民票が長野原町にない人は除く。 コロナ禍以降、都心からの移住者が増加傾向にある。
小・中学校の学区
町立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]。
2024年3月末で町立北軽井沢小学校は廃校。廃校跡地を活用し、2026年4月に一条校で株式会社立森のインター初等部開校。学費は約300万円/1年。スクールバスが軽井沢駅と北軽井沢を往復する。
交通

草軽交通バスが軽井沢駅、草津温泉、吾妻線の長野原草津口駅・羽根尾駅と北軽井沢とを結ぶ。
北軽井沢バス停付近に「北軽観光タクシー」の待機所あり(タクシー車輌が待機していない場合は、電話番号が標記されていて、タクシーを呼ぶことができる)。
JR渋谷駅・渋谷マークシテイ・中野坂上駅と北軽井沢を直行高速バスが1日1便。 JR横浜駅西口・たまプラーザ駅・新横浜駅と北軽井沢を直行高速バスが1日2便。
関係人口を増幅する高速バスは都心と直結する基幹路線でインバウンド効果が高まっていた。かつて上田バスや西武バスも運行し、乗務員に余裕があった時期は渋谷—北軽井沢間に複数便あったが、乗務員不足により2025年夏季には1日1便に減便。現在は京王バスと東急バスの共同運行。
文化
旧北軽井沢駅は、日本初のカラー映画である『カルメン故郷に帰る』のロケ地にもなっており、当時から風光明媚な地域として注目されていた証左であろう。この地のシンボルとも言える旧北軽井沢駅舎は、2006年(平成18年)9月15日に国の登録有形文化財に登録され、夏期など期間限定で無料開放されている。
野外音楽ホールと宿舎を併設した施設があり、古くは桐朋学園が合宿所として利用していた。その後長らく放置され荒れ放題になっていたが、ホールは近年再整備が進みつつある。2005年(平成17年)からは毎年8月前半に、このホールと近辺のホテルを利用してチャールズ・ナイディックらがクラリネットの合宿を開催し、日本・韓国などの音楽学校生やフリーの演奏家で賑わう。
行事
2月初旬「北軽井沢炎のまつり」(浅間高原雪合戦)、7月初旬「北軽井沢マラソン」(2010年度は中止)、8月「北軽井沢高原まつり」(花火大会)が、恒例行事として開催されている。
施設

- 北軽井沢住民センター
- 旧草軽電鉄北軽井沢駅駅舎
- 北軽井沢観光協会 (北軽井沢ふるさと館)
- 浅間牧場
- 長野原町立北軽井沢小学校 (閉校)
- 北軽井沢郵便局
- 軽井沢高原ゴルフ倶楽部
避難所
当町には長野原町から指定された避難所が2つある[8]。
- 長野原町立北軽井沢小学校
- 北軽井沢住民センター
脚注
関連項目
外部リンク
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